ホイッグ党議員時代
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「ホイッグ党議員時代」の解説
大学在学中の1820年にストックブリッジ選挙区から庶民院議員選挙に出馬して初当選。ダービー伯爵家は代々ホイッグ党支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけイングランド国教会を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった。 1824年にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男エドワード(第15代ダービー伯爵)と次男フレデリック(第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。 1827年にトーリー党自由主義派のジョージ・カニング内閣に陸軍・植民地省政務次官(英語版)として参加したが、その後、トーリー党保守派のウェリントン公爵が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した。 1830年、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、グレイ伯爵のホイッグ党政権が誕生すると、そのアイルランド担当大臣(英語版)として入閣した。合同法廃止を求めるアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネル議員と庶民院において激しく激闘した。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した。 1833年3月に陸軍・植民地大臣に栄転し、大英帝国植民地における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地ではいまだ合法であった)。 しかし1834年5月にはアイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して陸軍・植民地相を辞職した。 以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父第12代ダービー伯爵からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家3代によれば、自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという。
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