ホイッグ党貴族院院内総務に
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「グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)」の記事における「ホイッグ党貴族院院内総務に」の解説
1855年2月に第一次パーマストン子爵内閣が発足すると、再び枢密院議長として入閣した。また高齢の貴族院院内総務ランズダウン侯爵が政界の第一線から退くことを希望するようになり、自らの後継者としてグランヴィル卿を指名した。パーマストン卿としては貴族院の重鎮であるランズダウン卿に貴族院への睨みを効かせ続けてほしがっていたが、ランズダウン卿の意思は固かった。結局ランズダウン卿は無任所相としてパーマストン卿内閣に入閣しつつも、貴族院院内総務職を辞し、グランヴィル卿がその後任となった。 1859年6月にホイッグ党内の二大派閥(パーマストン派とラッセル派)、ピール派、急進派が合同して自由党が結成され、保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣の倒閣に成功した。パーマストンとラッセルの和解の約定ではヴィクトリア女王から組閣の大命を受けた方を首相とし、もう一人はその政権を支えることになっていた。ところがヴィクトリア女王はパーマストンもラッセルも嫌っていたため、信頼する貴族院院内総務グランヴィル卿に大命を与えた。ホイッグ二巨頭ではなく、ホイッグ中堅幹部のグランヴィル卿に大命が下ったことは政界に衝撃を与えた。グランヴィル卿はしぶしぶながら大命を拝受し、パーマストンとラッセルに協力を要請したが、ラッセルに反対されたため、組閣を断念せざるを得なかった。これに怒った女王の裁定でパーマストンに組閣の大命が下った。 こうして成立した第2次パーマストン子爵内閣(1859年-1865年)と続く第2次ラッセル伯爵内閣(1865年-1866年)にグランヴィル卿は枢密院議長として入閣した。第二次パーマストン内閣期の1863年から1864年にかけてドイツ連邦とデンマークがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題をめぐって対立を深めた。首相パーマストン卿と外相ラッセル伯爵は会議外交での収拾を目指したが、グランヴィル卿は介入に慎重だった。ヴィクトリア女王も介入に慎重でグランヴィル卿をお目付け役にし、パーマストン卿とラッセル卿の監視にあたらせた。この問題の間中、グランヴィル卿は女王からの指示に従って二人の動向を女王に報告し続けた。だがパーマストン卿とラッセル卿は、女王にもグランヴィル卿にも独断でロンドン会議開催の計画を推し進めた。1864年2月にドイツ連邦の二大国プロイセン王国とオーストリア帝国の連合軍とデンマーク王国軍の間で第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が開戦した。その間の4月から6月にかけてロンドン会議(英語版)が開催されるも「鉄血宰相」の異名をとるプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動で会議は座礁し、何らの合意に達することもなく終わった。会議決裂を前にパーマストン内閣の閣議ではデンマーク側で参戦するか否かの議論も行われたが、グランヴィル卿は大蔵大臣ウィリアム・グラッドストンとともに参戦に反対した。参戦反対派が押し切った結果、イギリスは今後シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に関与しないことが閣議決定され、デンマークを見捨てることとなった。
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