ホイッグ党の指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 22:05 UTC 版)
「チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)」の記事における「ホイッグ党の指導者として」の解説
18世紀の党派は党首個人の人脈の集まりという要素が強かったので、党首が死ぬと解散してしまう傾向があったが、イデオロギー的・精神的結合を確立していたフォックス派はフォックスの死後も消滅せず、グレイを中心にして結束を維持した。 グレンヴィル男爵内閣の後を受けたトーリー党政権ポートランド公爵内閣はすぐにも解散総選挙(英語版)に踏み切った。この総選挙でトーリー、ホイッグの政党名が復活し、国王が大権でグレンヴィル男爵内閣を更迭したことを支持する者をトーリー、支持しない者をホイッグと呼ぶようになった。選挙結果はトーリー党政権の勝利に終わり、これによりトーリー長期政権の基盤ができた。またグレイ伯爵とホイッグ党は国王ジョージ4世から嫌われていたため、彼の治世中には組閣の大命を受けられる見込みがなかった。結局グレイ伯爵率いるホイッグ党は、1830年までの長期に渡って野党に甘んじることになった。 このような不遇のためこの時期のグレイ伯爵はロンドンでの議会活動よりノーサンバーランドでの田園生活を好んでいた。 しかしトーリー党政府による治安維持立法の強化と弾圧にも関わらず、改革を求める大衆運動は衰えなかったし、議会内でもそれを反映して改革を求める機運が少しずつ高まっていった。そのため、グレイ伯爵は長い野党時代の間に自身のホイッグ党最高指導者としての地位を固めるとともに党勢を伸長させていくことができた。 1828年1月に成立したウェリントン公爵内閣(トーリー党政権)はカトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐって内部分裂を起こし、カニング派(英語版)やウルトラ・トーリー(英語版)の政権離反を招いた。一方グレイ伯爵はカトリック解放・選挙法改正の実現を目標を掲げることでホイッグ党内の各派閥を一致団結させることに成功した。 1830年6月にはホイッグ嫌いのジョージ4世が崩御し、グレイ伯爵の友人だったウィリアム4世が国王に即位した。当時の慣例であった国王即位に伴う解散総選挙(英語版)はトーリー党政権が多数を得たものの、グレイ伯爵はカニング派やウルトラ・トーリーなど他の野党勢力との連携を深めていき、1830年11月にも王室費に関する政府法案に反対する動議を233対204の僅差で可決させた。これによりウェリントン公爵内閣は総辞職に追い込まれた。
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