ホイッグ党フォックス派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 22:05 UTC 版)
「チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)」の記事における「ホイッグ党フォックス派として」の解説
1786年にノーザンバーランド選挙区(英語版)からホイッグ党候補として立候補し、庶民院議員に当選した(1807年までこの選挙区から当選し、ついで1807年5月から6月までウェストモーランド(英語版)州アップルビー選挙区(英語版)から、同年6月から爵位を継承する11月までデヴォン州タヴィストック選挙区(英語版)から選出される)。 ホイッグ党内では改革派のチャールズ・ジェームズ・フォックスの派閥に属した。グレイはフォックス派の中でも特に将来有望な若手議員であり、早いうちに同派の指導的地位に昇りつめた。 フランス革命の影響でイギリスでも民衆の改革要求が高まり、イギリス支配階級はその対応をめぐって分裂した。ホイッグ党内でもこれを弾圧すべきとするエドマンド・バーク派とある程度妥協すべきとするフォックス派に分裂した。 グレイは1792年4月に他のフォックス派議員27人とともに「国民の友協会(英語版)」を結成した。同組織は目的として「選挙の自由と議会における国民のより平等な代表の復活」「国民の選挙権のより頻繁な行使」を掲げていた。こうした改革を行うことによって国民が共和政革命を起こさないようにすることを狙いとしていた。彼らはホイッグ党内に残っていた貴族主義の空気に対抗したが、そのためにポートランド公爵派からは蛇蝎のごとく嫌われた。「国民の友協会」の宣言が過激になってくるとグレイ自身も困惑することがあったという。結局、「国民の友協会」は政府の弾圧を受けて創設から2年後には解散となった。 しかしグレイの議会改革を目指す運動は衰えず、1793年と1795年の二度にわたって議会改革動議を提出している(ただし否決)。 ホイッグ党は1780年代から長い野党生活を送っていたが、1806年から1807年にかけてホイッグ党とトーリー党の大連立政権(グレンヴィル男爵内閣)が短期間だが成立した。この内閣においてグレイは初め海軍大臣(英語版)、ついで1806年9月に死去したフォックスの後任として外務大臣に就任した。外務大臣として奴隷貿易廃止を実現した。またカトリック解放(カトリックの参政権付与)を訴えたが、カトリック解放に強く反対する国王ジョージ3世との軋轢が強まり、内閣は1807年3月にも総辞職に追い込まれた。 1807年11月には父が死去し、第2代グレイ伯爵の爵位を継承し、貴族院議員に列した。
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