ホイッグ党からトーリー党へ
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「ヘンリー・ヴェイン (第2代クリーヴランド公爵)」の記事における「ホイッグ党からトーリー党へ」の解説
1826年イギリス総選挙ではトットネス選挙区(英語版)から出馬して当選したものの、得票数2位(37票)だったことに激怒したという。このとき、父の影響力があるほかの選挙区でも激しい選挙戦だった。1827年3月にカトリック解放に賛成票を投じたが、同年にカニング内閣が成立したときはフランス滞在中であり、続くゴドリッチ子爵内閣でも内閣への賛否を表明しなかった。ウェリントン公爵内閣期(1828年 – 1830年)にも1828年5月と1829年3月にカトリック解放に賛成票を投じた程度だったが、1830年2月4日の初演説で自身の支持するホイッグ党の政策が首相ウェリントン公爵に採用されたとして、公爵を賞賛した。1829年ごろよりトーリー党寄りになったとされ、1830年には選挙改革やユダヤ人解放に反対票を投じるようになった。 1830年イギリス総選挙ではトットネス選挙区で28票(得票数3位)しか得られなかったが、ウェリントン公爵内閣への支持によりソルタッシュ選挙区(英語版)でウィリアム・ラッセル(英語版)の支持を受けて当選した。第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ率いるホイッグ党内閣が提出した選挙改革法案(第1回選挙法改正における第一次改革法案)に対し1831年3月に反対演説をして、中流階級に選挙権を与えることに同意し、腐敗選挙区の存在を認めつつ、普通選挙を革命の前兆であるとして批判した。1831年4月、トーリー党のアイザック・ガスコイン(英語版)が提出した動議(この動議が可決されたことで第一次改革法案が失敗に終わった)に弟とともに賛成票を投じると、ついに父からの支持を失い、1831年イギリス総選挙ではソルタッシュから再選できなかった上、トットネス選挙区でも39票(得票数3位)で落選した。
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