1846年合衆国下院議員選挙
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「1846年合衆国下院議員選挙」の解説
1846年にリンカーンはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出され、1期2年間を務めた。イリノイ州選出ホイッグ党議員はリンカーン1人だったが、投票を行うほとんどすべての機会に参加し、党の路線に沿った演説を行うことで党への忠誠を示した。奴隷制廃止論者のジョシュア・R・ギディングスとの共同提案で、コロンビア特別区における奴隷制を廃止するという法案を起草した。これには奴隷所有者に補償金を支払うこと、逃亡奴隷を捕らえることを強制すること、さらにこの件について住民投票を行うことという条件がついていた。しかしホイッグ党支持者から十分な支持を得られなかったため、この法案を取り下げた。信頼されるべきホイッグ党員として彼はしばしば党首のヘンリー・クレイを賞賛した。下院議員として多くの時間を彼はワシントンD.C.で一人で過ごし、また政治家仲間にめざましい印象を与えた。外交政策や軍事政策では米墨戦争に反対し、その原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行った。ウィルモット条項も支持した。これが成立しておれば、アメリカ合衆国がメキシコから獲得した領土で奴隷制が禁じられるはずだった。 1847年、リンカーンは「スポット決議」(連邦議会下院における現地点問題に関する決議案)を起草し提案することでポークに対する反対を強調した。この戦争は、メキシコとアメリカ合衆国との間で紛争になっている地域で、メキシコ兵がアメリカ兵を殺したことに始まっていた。ポークはメキシコ兵が「我が国の領土」を侵犯し、「我が国の大地」で仲間市民の血を流させたと主張した。リンカーンはポークに血が流された正確な地点を示し、そこがアメリカの大地であることを議会に示すよう要求した。議員たちの多くも、ホイッグ党の議員が民主党を攻撃しているという程度にしか受け止めず、議会はこの決議案を取り上げず議論すらしなかった。全国紙はこれを無視し、リンカーンの地元のイリノイ州では、民主党系の新聞が予想通りリンカーンを攻撃した。リンカーンはその選挙区での支持をなくす結果になった。あるイリノイ州の新聞が「スポッティ・リンカーン」とあだ名をつけて嘲った。リンカーンはのちに、自分の声明の中で特に大統領の戦争遂行能力を攻撃したことを後悔した。高木八尺は、「本質的には、国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在を許すべからずとする人間リンカーンの血のにじむような良心の叫びだった」と評している。 1848年のホイッグ党大統領候補指名選挙では、ヘンリー・クレイでは勝ち目がないと理解し、下院で1期のみ務めると誓っていたリンカーンはザカリー・テイラー将軍を支援した。テイラーが当選し、リンカーンは土地利用局のコミッショナーに指名されることを期待していたが、この職は同じイリノイ州出身のライバルであるジャスティン・バターフィールドが行った。バターフィールドは内閣から高度に熟練した弁護士と考えられていたが、リンカーンの見解では「古い化石」に過ぎなかった。下院の任期が終了したとき、来るテイラー政権はリンカーンに論功行賞としてオレゴン準州の州務長官あるいは知事の職を用意した。この遠隔の地は民主党の強い地盤であり、それを受ければイリノイ州での法律と政治の経歴に終止符が打たれると判断したリンカーンはそれを断り、スプリングフィールドに戻って、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向けた。
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