1847年の先行隊
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「モルモン・トレイル」の記事における「1847年の先行隊」の解説
1847年4月、先行隊に選ばれたメンバーが集まり、最後の物資が詰められ、この集団は14個中隊に編成された。民兵隊と夜警が形成された。先行隊は143名で構成され、その中には3人の黒人と十二使徒定員会の中から8人が含まれ、さらに3人の女性と2人の子供も居た。隊列は73両の荷車と役畜、家畜となり、この集団の1年分の物資が積まれた。4月5日、荷車隊はウィンター・クォーターズからグレートベースンに向けて出発した。 ウィンター・クォーターズからララミー砦まで6週間掛かり、6月1日に砦に到着した。ララミー砦にいる間にモルモン大隊のメンバーが合流した。彼らはミシシッピ州から来た者達であり、病気のために隊を離れてコロラドのプエブロで冬を過ごしていた。ここで大きくなった先遣隊は既に確立されていたオレゴン・トレイルを通ってブリッジャー砦の交易基地に向かった。 ヤングは6月28日にジム・ブリッジャーと出遭った。二人はソルトレイク・バレーに入る経路を検討しグレートベースンの山岳が多い渓谷で発展しうる開拓地の実現可能性を話し合った。先遣隊はサウスパスを通過し、筏でグリーン川を渡り、7月7日にブリッジャー砦に到着した。これと同じ頃、モルモン大隊の病気になっていた分遣隊12名がさらに合流した。 それから先の岩の多く障害だらけの道に直面したヤングは前年にドナー・リード隊がカリフォルニアに行った時に使った道を辿ることにした。先遣隊は岩の多い山道を抜ける為に隊を3つに分けた。ヤングとその他何人かの隊員は森林ダニが媒介する一般に「山岳熱」と呼ばれる熱病に罹っていた。病人の小さな隊が大きな集団の後に遅れて付いていき、斥候隊が作られて指定された経路を先行することになった。 斥候のエラストゥス・スノーとオーソン・プラットが7月21日にソルトレイク・バレーに入った。7月23日、プラットは神に土地を捧げる祈りを提案した。土地が切り開かれ、灌漑用の溝が掘られ、ジャガイモとカブがまず畑に植えられた。7月24日、ヤングは友人のウィルフォード・ウッドラフが御する病人用荷車から渓谷を初めて見た。ウッドラフに拠れば、ヤングは渓谷の様子に満足の意を表し、「これがまさにその場所だ、進もう」と宣言した。 1847年8月、ヤングと先遣隊の選ばれたメンバーがウィンター・クォーターズに戻り、翌年に予定される移動隊を編成した。1847年12月までに、2,000人以上のモルモン教徒がソルトレイク・バレー、さらにはメキシコ領への旅を完了した。 耕されていなかった土地で耕作することは当初難しく、乾燥した大地を鋤こうとすると鋤が壊れた。灌漑システムが考案されて鋤く前に土地を水浸しにし、そのシステムは1年中補助的な水分を供給した。ソルトレイクシティの都市計画が作られ、そこを教会の本部に指定した。懸命な労働で繁栄する地域社会が生まれた。この新しい開拓地では娯楽も重要であり、最初の公共建築物は劇場になった。 しかし、アメリカ合衆国が間もなく追いついてきて、メキシコとの戦争が終わった後の1848年にモルモン教徒が入植した土地はアメリカ合衆国の一部になった。
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