1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争とは? わかりやすく解説

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1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 16:14 UTC 版)

イタリア統一運動」の記事における「1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争」の解説

詳細は「第一次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版)」を参照1848年革命」、「イタリアで1848年革命英語版)」、「ミラノの5日間」、「ヴェネト共和国」、および「ローマ共和国 (19世紀)」も参照 1848年にはフランスで2月革命起き国王ルイ・フィリップパリから逃亡し共和国成立した。この1848年革命動きドイツオーストリアそしてイタリアにも波及しウィーン体制終焉させた。 ウィーン体制以降ロンバルディア地方ヴェネト地方オーストリア支配するロンバルド=ヴェネト王国となったオーストリアナポレオン統治時代の諸改革継承しイタリア他の地域比べてはるかに近代的な制度整えられていたが、それでも外国支配対す反感は根強かったまた、ルネサンス期には栄華誇ったヴェネツィアはこの時代には衰退しており、人口減少して貧困者が3分の1占めその上にオーストリア貿易港としてトリエステ重視したためにかつて活発だった造船業寂れ果てていた。1840年代にはヴェネツィアはやや立て直し観光客訪れ鉄道も通るようになった1848年1月1日ロンバルディア市民オーストリア政府税収源となっていた煙草購入止める不服従運動形態での騒乱起きた煙草一揆)。これから暫くしてシチリア島ナポリでも反乱発生しフェルナンド2世1821年の時と同様の妥協をして両シチリア王国憲法発布し政治犯釈放したシチリア分離独立要求し、独自の憲法制定し議会設置した両シチリア動きイタリア諸国波及し2月にはトスカーナ大公国でも暴動起き、これは比較非暴力なものであったトスカーナ大公レオポルド2世憲法発布させられた。これまで反動的な政策固持して来たサルデーニャ王国3月4日憲法制定し3月15日には教皇ピウス9世教皇国家憲法発布した。これらはいずれ君主によって発布され欽定憲法であり、「憲章」と呼ばれ主なモデルとなったのはフランス1830年憲法であり、1814年憲法ベルギー1831年憲法参考にされている。 一方オーストリア統治下のロンバルディアでの緊張高まり3月13日オーストリア三月革命ドイツ語版英語版)が起こり宰相メッテルニヒ罷免されたとの報が伝わると3月18日ミラノヴェネツィアでも民衆蜂起起こったミラノでは3月18日から22日まで激し市街戦が行われ、反乱勢力ヨーゼフ・ラデツキー将軍率いオーストリア軍退却させ、臨時政府組織したミラノの5日間)。ヴェネツィアではダニエーレ・マニンの元でヴェネツィア共和国再興宣言されサン・マルコ共和国設立したヴェネト共和国 : Repubblica Veneta)。 ミラノにはサルデーニャ軍の先遣隊入城し臨時政府協定結んだ一方マッツィーニはじめとする民主派もミラノ集結する。穏健派サルデーニャ王国介入要請し、これに対してカルロ・カッターネオジュゼッペ・フェッラーリエンリコ・チェルヌスキ共和国樹立を望む民主派はフランスの介入画策してマッツィーニ協力求めるが、彼はこれを拒絶し民主派は早々に分裂してしまう。 サルデーニャカルロ・アルベルト国内世論高まりと、ロンバルディア獲得思惑から、オーストリアに対して宣戦布告したサルデーニャ王国参戦大きな反響呼び教皇国家から義勇軍派遣されナポリ政府トスカーナ大公国参戦決めた。だが、オーストリアとの全面衝突懸念した教皇ピウス9世4月29日カトリック民族主義相容れない表明して戦争から離脱する教皇宣言大きな失望呼び教皇革命参加期待するネオグェルフ主義終わらせることになったナポリ政府シチリアの反乱鎮圧のために撤兵し、フェルナンド2世は再び反動政策転じるサルデーニャ軍はゴーイトとペスキエーラでの戦い勝利したものの、7月24日クストーツァの戦いラデツキー将軍大敗喫するラデツキー将軍ミラノ奪回し8月9日停戦協定結ばれたラデツキー将軍ロンバルディア支配固めカルロ・アルベルト敗戦の傷を癒していた頃、イタリア他の地域では事態より一層深刻化していた。10月トスカーナ大公国では民主主義者が政権掌握した10月末には反動勢力のヴィンディシュ=グレーツ軍によるウィーン蜂起が起こる。11月には教皇国家首相ペッレグリーノ・ロッシ暗殺され教皇ピウス9世ガエータ逃亡する事態になった1849年初めに教皇国家内で制憲議会のための選挙が行われ、2月9日ローマ共和国成立宣言された。2月2日アポロ劇場開かれた政治集会で、若い聖職者のアルドゥイーニ神父俗界における教皇権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳である」と宣言した3月初旬マッツィーニローマ到着し政府参加した(後にアウレリオ・サッフィカルロ・アルメッリーニ並んで三頭執政一人選ばれる)。ローマ共和国憲法では信仰の自由教皇独立死刑廃止無料公教育定められた。 共和派高揚行動の必要を迫られサルデーニャカルロ・アルベルトは、亡命ポーランド人将軍アルベルト・シュルザノスキー(英語版)を司令官任じてオーストリアとの戦争再開させた。だが、サルデーニャ軍は1849年3月23日ノヴァーラの戦いラデツキー将軍敗れ敗戦責任取ってカルロ・アルベルト退位し息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世即位したサルデーニャイタリア統一またはロンバルディア征服野望一時的に頓挫した8月9日講和条約締結された。ノヴァーラの戦いから数日後ブレシア民衆蜂起発生していたが、オーストリア軍10日間で鎮圧されている。4月下旬トスカーナオーストリア軍制圧された。 革命勢力ローマ共和国ヴェネト共和国のみが残された。4月にシャルル・ウディノ(英語版率いフランス軍ローマ派遣された。当初フランス軍教皇共和政府との仲介望んでいたが、共和政府は徹底抗戦主張したフランス軍ローマ包囲しガリバルディ率い共和国軍果敢な抵抗をしたが、2か月間の包囲戦の後6月29日ローマ降伏し教皇復帰したガリバルディマッツィーニ再度亡命余儀なくされ、1850年ガリバルディニューヨーク到着した一方オーストリア軍ヴェネツィア包囲し1年以上包囲戦の末、8月24日占領した独立派闘士たちはベルフィオーレ公開絞首刑となり(ベルフィオーレ殉教事件)、オーストリア軍中部イタリア秩序回復し革命は完全に粉砕された。

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