マチャイアスへの襲撃、1633年
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「マチャイアス (メイン州)」の記事における「マチャイアスへの襲撃、1633年」の解説
最初の拠点ができた時代はフランスとイングランドの間で激しい領土争いが起きていたときだった。フランス領アカディアの指揮官シャルル・ド・ラ・ツールが、ノバスコシアのポートロイヤルにあった首都から降って来て、守備隊6人のうち2人を殺し、他の者達をその商品と共に連れ去った。その後の120年間、イングランドからもフランスからもこの地点を領土にしようという永続的な動きが無かった。 1704年、ベンジャミン・チャーチ少佐がここで、イギリス海峡のジャージー出身のジョン・ブレトゥーンと妻子、およびM・ラトルとその妻さらに3人の子供たちを発見して捕まえた。1734年、当時のマサチューセッツ湾直轄植民地総督のジョナサン・ベルチャーがこの地を訪れた。 1762年、干ばつのために干し草が不足し、スカボローのイザイア・フォスター、アイザック・ララヒー達が草を探してこの地を訪れ、湿地帯で大量の草を発見した。翌年大勢の人々がここに入植し、この場所の長所に親しむようになった。80人居た開拓者のうち少なくとも54人がスカボローの出身だった。彼らは植民地議会に開拓のためにこの近辺の払下げを請願し、それが1770年に認められた。1763年に住民となった者達の中に、サミュエル・スコットとシルバナス・スコット、T・D・リビーとG・リビー、S・ストーンとJ・ストーン、W・B・ララビーとJ・ララビー、D・ヒルとJ・ヒル、ダニエル・フォッグ、J・フォスターがおり、その大半はウェストフォールに入植した。またマンソン、フォスター、レビー、スコットたちはイーストフォールズに入った。1765年、モリス・オブライエンとその息子達が製材所2か所を建設した。 1768年、スティーブン・ジョーンズが入植してきた。その息子は長い間、ワシントン郡の一般訴訟裁判所判事と検認判事を務めていた。1770年、他にも多くの者が入植し、イースト川とウェスト川沿いに幾つかの工場が、さらにミドル川沿いに1つの工場が建設された。
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