マチャイアスの海戦、1775年
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「マチャイアス (メイン州)」の記事における「マチャイアスの海戦、1775年」の解説
詳細は「マチャイアスの海戦」を参照 アメリカ独立戦争で最初の海戦はマチャイアスの海戦だった。作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーはその著書『アメリカ合衆国海軍の歴史』の中で、この海戦のことを「海上のレキシントン」と呼んだ。1775年6月、マチャイアスの町民がイギリスから宿舎用木材を要求されたのを断り、その後にマチャイアス港でマチャイアスの海戦が起きた。ジェレマイア・オブライエン大尉とベンジャミン・フォスター大尉の指揮で開拓者達がイギリスの武装スクーナーHMSマーガレッタを捕獲した。 レキシントンとコンコードの戦いでそれらの町の人々が陸上での戦いを始めたように、マチャイアスの多くの人々は海上での独立の戦いを始めることになった。ボストンのイカボッド・ジョーンズ船長が休暇を得て、小さな船に食料を積んでマチャイアスに派遣した。それは木と材木を積んで戻って来るという条件が付されていた。そのスループ船をムーア大尉の指揮するイギリス武装スクーナーマーガレッタが護衛しており、5月9日にマチャイアスに到着して、4月におきたレキシントンでの流血沙汰に関する最初の情報をもたらした。この町の目立つ場所に町民が自由の柱を建て、その感情を知らしめた日から幾らも経っていないときだった。ムーア大尉はその柱の意味を知り、町を砲撃するという威嚇の下にその柱の除去を命じた。ジョーンズの影響力もあり、ムーアはその威嚇の実行を一日伸ばしに伸ばしており、その間に住民は事態を検討するために集会を数回開いていた。しかしその度に結論は柱を除去しないということになった。最後の集会が月曜日に開かれることになり、その前の日曜日に集会所での礼拝が終わるときにムーア大尉を捕獲する作戦が立てられた。しかしムーアは川の上流から武装した者達が渡って来るのを窓から見て、危険を察知し、開いた窓から飛び出し、自艦に逃げた。武装した開拓者の集団が川岸に達したとき、開拓地に向けてマーガレッタから数発の砲弾が放たれ、川を下って行った。 翌朝早く、ベンジャミン・フォスター、ジェレマイア・オブライエンおよびその熱烈な支持者である兄弟5人、さらにその他の者達が桟橋に集合し、ジョーンズの木材輸送用スループを捕獲した。このとき大声で呼んで町の男たちを船に呼び上げた。マーガレッタを捕獲する作戦が明かされ、臆病な者は岸で待っていることを認められ、大胆な者達でもマスケット銃を携えている者は数人に過ぎなかったが、他の者は熊手や斧を取り、川を下り、イギリスのスクーナーの攻撃に向かった。別の一隊が小さな沿岸用ボートで後を追った。彼らは湾の中でスクーナーを発見し、乗り移るために並走した。イギリス艦からは大砲、マスケット銃さらに手りゅう弾で攻撃があり、それによって数人が殺された。両艦は離れたが、6人兄弟の1人であるジョン・オブライエンのみが敵艦に乗り移っていた。数人のイギリス兵が直ぐに彼に発砲したが、どれも当たらなかった。続いて銃剣での攻撃を仕掛けてきたが、それが届く前にジョンは海に飛び込み、自分たちのスループに向かって泳いでいた。ジョンは濡れただけで特に外傷もなく船にたどり着いた。マチャイアス住民が持っていた唯一の大砲は防塁用のものであり、これをレールの上に載せて発砲したところ、破壊的な効果があった。マスケット銃による攻撃も効果があり、マーガレッタの上甲板が払われた。指揮官のムーアの他数人が倒され、両艦が再度接舷されると、指揮を執っていた士官が怯えて甲板下に逃げ、即座に乗組員が降伏した。 その後の6月26日、マサチューセッツ議会がこの事件の英雄たちに感謝の意を表する決議を行った。マーガレッタはアメリカ人に捕まった最初のイギリス艦になった。フォスターとジェレマイア・オブライエンは間もなく私掠船に雇われ、かなりの成功を収めた。 マチャイアスの町にはバーナム酒場があり、マチャイアスの海戦の記念品を収める博物館となり、国定歴史史跡に指定されている。アメリカ独立戦争の記念として指定されている21軒の家屋の1つである。
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