マチャキラーの石碑と王朝史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:41 UTC 版)
「マチャキラー」の記事における「マチャキラーの石碑と王朝史」の解説
マチャキラーについては17基の石碑と6基の祭壇がイアン・グラハムによって1967年に写真と実測図によって紹介されている。これらの石碑と祭壇はセットになっている。そのほかにみられる石彫はもともと神殿の階段だったものか建築物4号の壁面パネルの一部だったものである。王の名前など人名が刻まれていても風化などの傷みが激しく王の名前の一部を構成する神の名だけがかろうじて読めるという石彫も5〜6基ほどみられる。女性の名前は2名分確認されている。 マチャキラーの石碑でわかる日付は、石碑11号にのみイニシャル・シリーズがみられるが、ほかはハアブ暦とツォルキン暦の組み合わせであるカレンダー・ラウンドと期間の終わりを表す文字である。最も古い日付は巨大なアハウの文字が刻まれた石碑13号にみられる9.14.0.0.0(711年)に相当する日付でありマチャキラーにあった王朝に関する最後の日付は石碑5号のA1,A2にみられる10.0.10.17.15(841年)に相当する日付である。実際のところ、外部からの非マヤ的な侵入者か簒奪者があったと思われ、10.0.15?.0.0.(844年)の日付のある石碑9号もある。マチャキラーにはジャガーや空、ヘビといったティカル、パレンケ、ヤシュチラン、カラクムルのような王家を表す名称を刻んだものは見当たらない。他の遺跡のように特定の人物の誕生、即位、継承関係がわかる文字も同様である。ただし石碑3号のA2,G3、石碑1号のA6、石碑7号のC1に刻まれた文字は何らかの特定な出来事を示している可能性がある。マチャキラーの石碑は他の遺跡にもみられることだがジョージ・カブラーが指摘するように備忘録のように省略されている。石碑13号から5号までの期間は約130年間であり6人の君主がいれば平均20年強の治世になるが実際には10バクトゥンが近づくにつれて在位期間が短くなっている。おそらくこの時期にマチャキラーで何らかの混乱があったと思われる。マチャキラーが完全に放棄されたのは10.0.15?.0.0.よりやや後と思われ、これは古典期のペテンや南部低地の祭祀センターが放棄された時期にだいたい一致する。 「T1045」1世(石碑13号;9.14.0.0.0(711年)) 「フリント神」1世若しくは「キン神」1世(石碑10号;9.15.0.0.0(731年),石碑11号;9.15.10.0.0(741年)) 支配者3(石碑12?号;9.16.10.0.0(761年),石碑18号;9.17.5.0.0(776年)) 「T1045」2世(石碑2号;9.18.10.0.0(800年)) 「キン神」2世(石碑3号;9.19.5.0.0(815年),石碑4号;9.19.10.0.0(820年)) 「魚を片手でつかむ者」「召還する者」「二つのチュエンを捕らえた者」(石碑8号;9.19.15.0.0(815年),石碑7号;10.0.0.0.0(830年),石碑6号;10.0.5.0.0(835年),石碑5号;10.0.10.0.0(840年))
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