ニューイングランドの遠征準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:49 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1707年)」の記事における「ニューイングランドの遠征準備」の解説
ボストンのイングランド人商人たちは、ポートロワイヤル相手に長年商売をしており、戦争が始まっても、一部の取引が続けられていた。とりわけ、サミュエル・ヴェッチに代表されるこれらの商人は、マサチューセッツ湾直轄植民地総督ジョセフ・ダドリーと親しく、1706年には、植民地立法府で、この商売は理不尽であるとの声が上がり始めた。ヴェッチはこの件に対応すべくロンドンに行き、ヌーベルフランスにイングランド軍を遠征させるようにとの主張を迫った。一方ダドリーは、かつてこの手の支援を本国に依頼したが、無視されており、フランスへの対抗姿勢を表すため、民兵軍をポートロワイヤルに遠征させることにした 。1707年の3月、ダドリーは1702年に発表した案を復活させ、遠征に植民地民兵を召集し、部分的にイングランド海軍の援助を仰ぐことにした。この提案は3月21日に立法府の同意を得たが、マサチューセッツ植民地は、遠征に賛成するか否かで反応が二分された。聖職者たちの一部は説教で賛成の意を表し、一方コットン・マザーは「神が人々を今後戦地につかわされることの無きように」と述べた。 マサチューセッツは、総勢1000人にもなる2つの大連隊を召集した。ニューハンプシャーからは60人、ロードアイランドからは80人が参加し、ケープコッドのインディアンからも志願兵を募った。この戦闘に関して、マサチューセッツでは盛り上がりを欠いていたため、召集は難しく、当局は兵士の人数を揃えるのに努力を強いられた。また、コネチカットも遠征に参加するよう要請を受けたが断った。1690年の遠征後のレイスウェイク条約で、ポートロワイヤルがフランスに返還されたことをよく思っていなかったのである。遠征軍の指揮は、マサチューセッツ民兵隊大佐のジョン・マーチが就任し、総勢1150人の民兵と450人の水兵が、24隻の軍艦で構成された艦隊で出発した。その中には、チャールズ・スタックリーが艦長を務める50門艦のデトフォード(英語版)や、シプリアン・サウザックが艦長の、24門艦の植民地艦プロビンス・ギャラリーもあった。この時、ジョン・マーチは、かつてのマリシート族の捕虜であるジョン・ガイルズを通訳として同行させていた。
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