ニューイングランドのアカディア遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:40 UTC 版)
「北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年)」の記事における「ニューイングランドのアカディア遠征」の解説
これらの一連の襲撃や、ディアフィールドへの奇襲に対して、13植民地北部の総督たちは、フランス植民地に対して行動を起こすことを要請した。マサチューセッツ総督のダドリーは、この様に述べている。「ケベックとポートロワイヤルを破壊して、フランスの海軍の物資をすべて女王陛下のものとし、インディアン戦争に永久に終止符を打つ」ディアフィールドとウェルズの間の境界地帯には2000人以上の警備が置かれた。また、インディアンの頭皮への賞金は40ポンドから100ポンドとなった 。ダドリーはすぐに、アカディアへ報復を加えるための軍を組織し、1704年の夏、ベンジャミン・チャーチ率いるニューイングランド軍はペタグエ(現在のメイン州キャスティン)、パサマクォディ湾(現在のニューブランズウィック州セントスティーヴン)、グランプレ、ピジキ、ボーバサン(いずれも現在のノバスコシア州)で襲撃を行った。 ノリッジウォックへもニューイングランドの報復の手が加えられた。1705年の冬の間、ヒルトン大佐の指揮下の275人の兵士がラレを逮捕し、村のものを略奪した。ラレは逃げおおせたが、神父が礼拝をつかさどる教会は、ニューイングランド軍によって焼かれた。 フランスは多くのインディアンの家族をペノブスコット、ノリッジウォック、サコ、そしてペクアケから撤退させ、カナダのサンフランソワ(オダナク)に移住させた。彼らはサンフランソワ・インディアンと呼ばれ、イロコイ連邦からヌーベルフランスを守るための防御としての役割を果たした。
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