ニューイングランドの準備
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「ルイブールの戦い (1745年)」の記事における「ニューイングランドの準備」の解説
フランスのニューイングランドへの侵攻を恐れたマサチューセッツ総督、ウィリアム・シャーリーは、アナポリスロイヤルを守るべく、1744年の夏、アナポリスロイヤルの駐屯隊に200人部隊の援軍を送った。この知らせを受けたヌーベルフランスは、アナポリスロイヤル攻撃に出るも失敗したが、イギリス艦を拿捕してルイブールに連れ帰った。これに対抗して、シャーリーは、ルイブールへの攻撃の準備を整えた。フランス軍や私掠船による脅威を退けるためであった。 シャーリーは、カンゾの襲撃の際、フランスに捕囚されたイギリス兵が綴ったルイブールの脆弱さを強調し、遠征への支援を募った結果、他の植民地から援軍や軍艦や大砲が提供され、資金が調達された。カンゾの襲撃中に捕虜となった者たちは、まずルイブールに連れて行かれ、そこでの自由行動を許可された。イギリス軍の兵士の何人かが、砦の形や配置、どのような状態にあるかを、駐屯隊の装備や大きさ共々細かくメモを取っていたのだった。何年もの間、ルイブールとひそかに取引をしていて、その頑健さを知るニューイングランド住民の懸念はあったものの、ニューイングランドの政界や経済界の関心は高く、多くの略奪品への期待もあり、1745年の2月5日、マサチューセッツ下院は、他のイギリス系植民地と共に、ルイブールへの再度の軍事遠征を承認した。 ルイブールでは、軍も一般人も、恵まれた状況にあるとは言えなかった。1744年の支給物資は少なく、漁師は十分な物資がないため、不承不承ながら漁に出ていた。軍の兵士たちは、カンゾでの自分たちの骨折りの結果である、戦利品の一部をもらえる約束だったのに、士官がそれを売り払って利益を得ていると主張していた。この年の12月、フランス軍の部隊は、劣悪な環境と給料の未払いから暴動を起こした。総督のデュシャンボンが、兵士たちの不満を沈めるために給料を払い、戦利品を取り戻しても、この年の冬のルイブールは、かなりの緊張状態にあった。軍の上層部が、兵士たちに対して強い態度を取れないのが原因だった。デュシャンボンでさえも、いやいやながら救いの手を差し伸べただけで、このことが外に漏れて、危険な状態となることを恐れていた。しかし、この危険な状態が、まさにボストンで起こりつつあったのである。
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