アナポリスロイヤル攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/28 15:03 UTC 版)
「ダンヴィユ公爵の遠征」の記事における「アナポリスロイヤル攻撃」の解説
チェブクトに錨をおろした44隻の船は、5週間ほどとどめ置かれたままだった。9月29日に、ダンヴィユの代行として指揮を執ったコンスタンタン=ルイ・デストゥーメルが、アナポリスロイヤルへの攻撃のため、遠征隊から1500人の兵士と、ラムザイ軍から300人の兵士を送り込むことを決めた。しかしデストゥールメルは、それだけの任務の遂行能力がなく、そして、指揮官も自分には向かないと考えており、周囲への過剰な気配りから、協力者を募ることをよしとせず、結局、絶望と不安、怒りの末、自分の周囲はすべて敵であるという思いに駆られ、自らの剣で自殺まで図るはめになった。 次に遠征隊の指揮官を引き受けたのは、ヌーベルフランスの次期総督に任命され、艦隊と共にカナダにやって来たジョンキエールだった。アナポリスロイヤル攻撃計画が推し進められる一方で、兵士たちが次々と病気で死んで行き、10月の半ばまでには、チェブクトに上陸した者のうちの41パーセントが死亡、または重体であった。その数は下士官、乗組員そして兵士を含めて12,861人だった。病気はミクマク族や、ラムザイの兵士たちにも伝染して行った。 10月半ばまでに、300人のラムザイの軍勢はアナポリスロイヤルに到着した、フランスとインディアンの部隊はアナポリスに野営を張って、3週間の間、兵士と砲兵を乗せた艦隊が着くのを待っていた。彼らはミナスとイギリスの交信の断絶や、砦の駐屯兵とアカディア人の接触の阻止に努めていた。 10月24日、42隻の艦がチェブクトを発った。艦隊では、ミナスに住むアカディア人約50人が案内を務めていた。うち3隻の病院船が危篤状態の者を乗せてフランスに発ち、13隻の艦が、アナポリスロイヤルの攻撃に参加する、94人の士官と1410人の兵士を乗せて出港した。2日後、アナポリスロイヤルへの艦隊がケープネグロを発った時、ジョンキエールは心変わりした。艦隊にフランスへ向かうように命じ、ラムザイに、アナポリスロイヤルを撤退するようにという指示を伝えたのだ。
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