アナポリスロイヤルの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/13 03:49 UTC 版)
アナポリスロイヤルの戦い
![]() |
このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。 |
アナポリスロイヤルの戦い(1744年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 04:28 UTC 版)
「ジョン・ゴラム」の記事における「アナポリスロイヤルの戦い(1744年)」の解説
ジョージ王戦争の間中、ゴラムと、インディアン及びニューイングランド人70人から成る部隊はアン砦防御の任務についていた。この砦はフランス軍とアカディア兵、ミクマク兵から多大な攻撃を受けていた。1744年のアナポリスロイヤルの戦いでは、10月4日にゴラムと部隊が、近くのウィグワムにいたミクマク族の男たちと5人の女、3人の子供たちを虐殺した。 ノバスコシア総督のポール・マスカレンは、ニューイングランドの猟兵隊の戦術は、正規連隊のやり方よりも境界地帯では頼りになると述べている。10月のまた別の日、ゴラムは3人のインディアンの頭皮と、生きたインディアンの赤ん坊を連れて戻った。1746年の2月、マサチューセッツ総督のウィリアム・シャーリーはこう書いている。「アナポリスロイヤルのゴラム中佐と彼の猟兵部隊のすばらしい軍事行動は、彼らのような部隊がいかに有益であるかを知らしめることになった」 マリシート族やミクマク族は、1744年のアナポリスロイヤルの戦いの間、ゴラムがミクマクの家族を殺したことへの報復を狙っていた。1745年の戦いの間、ミクマク族やマリシート族はイギリス兵ウィリアム・ポートやゴラムの部隊のモホーク兵を捕虜とした。ゴラム自身は、父親とルイブールでの戦闘に参加していたため、アナポリスロイヤルにはいなかった。 ポートはセントジョン川沿いのオークパク村に連れて行かれた。ノバスコシアからミクマク族がその村にやってきて、ゴラムに家族を殺された報復として、1745年7月6日、ポートと、ジェイコブという名のモホーク兵を拷問にかけた。その数日後の7月10日、ポートは、ミクマク族がメデュクトゥクのインディアン集落で、他のモホーク兵にも拷問を行っているのを目撃した。
※この「アナポリスロイヤルの戦い(1744年)」の解説は、「ジョン・ゴラム」の解説の一部です。
「アナポリスロイヤルの戦い(1744年)」を含む「ジョン・ゴラム」の記事については、「ジョン・ゴラム」の概要を参照ください。
- アナポリスロイヤルの戦いのページへのリンク