ポートの手記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 10:26 UTC 版)
「アナポリスロイヤルの戦い (1745年)」の記事における「ポートの手記」の解説
包囲戦の間、ミクマク族はイギリス兵ウィリアム・ポートとジョン・ゴラムの猟兵数人を捕囚した。ジョン・ゴラムはその時アナポリスロイヤルにはおらず、父と共にルイブールの戦いに参加していた。捕囚されている間、ポートは、アカディアとノバスコシアの戦いに関する手記をつづった。これは捕虜の手記(英語版)の中でも最も影響の大きいものであった。コベキドでは、アカディア人が、フランス軍はイギリス兵の遺体は置き去りにして、皮膚を持ってくるべきであると話していたのを書き留めている。 その翌年、他の場所で彼はマリシート族の集落で、セントジョン川沿いにあるオークパクの村に連れて行かれた。ここにいる間に、ミクマク族がノバスコシアから1745年6月6日に到着し、彼と、ゴラムの中隊にいたモホーク族の猟兵ジェイコブを拷問にかけた。これは家族をジョン・ゴーラムに殺された報復だった。6月10日、ポートは、ミクマク族がメデュクトクで、やはりゴーラムの猟兵であるモホーク族に拷問をかけていたのを目撃した。
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