二度目の包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 10:26 UTC 版)
「アナポリスロイヤルの戦い (1744年)」の記事における「二度目の包囲戦」の解説
インディアンによる最初の攻撃の影響はあまりなかった。その後デュヴィヴィエもインディアンを含む軍勢を率いてアナポリスに到着したデュヴィヴィエは9月9日まで待ってから包囲を始めた。フランスとインディアンの同盟軍が砲撃を行い、9月15日になって、デュヴィヴィエは再びイギリスに降伏を求めたが拒否された。9月25日にイギリス人軍曹が戦死して、兵士が一人負傷した 。デュヴィヴィエは、イギリス方の指揮官で副総督のポール・マスカレンと、休戦に関しての談判をたびたび行い、自分たちには艦隊がついている、今降伏すれば会戦を回避できるとマスカレンに言ったが、マスカレンはその誘いには乗らなかった。マスカレンは抜け目がなく、実践的で、勇気があり、フランス相手に効果的で大胆な防御を敷いた。 包囲戦の間中、デュヴィヴィエは救援のフランス艦隊を待っていた。9月26日、艦隊がやって来たが、これはイギリスの艦隊であり、ニューイングランドのジョン・ゴラムの猟兵隊を乗せていたこの、7月に続く2度目の艦隊到着のおかげで、砦の駐屯隊は270人にもなった。また、この艦隊はマスカレンにとっても大きな力になった 数日後、ゴラムはインディアンの猟兵を率いて、近くのミクマク族の野営に奇襲をかけ、女子供を殺して、その手足を切断した。ミクマク族はこのため包囲戦から撤退し、10月2日にはルイブールからミシェル・ド・ガンヌ・ド・フレーズがやって来て、デュヴィヴィエに、フランス海軍の艦隊は動いていないことを知らせ、冬の宿営のために兵を引き上げるように言った。デュヴィヴィエは撤退を渋ったが、結局、ノバスコシアからあたふたと兵を引き上げた。この時、デュヴィヴィエはこう書いている。「これは移動だ、撤退ではない」。(その翌年、ミクマク族はゴラムの猟兵たちに報復として拷問をかけた) ルイブールに戻ったデュヴィヴィエは、ロワイヤル島総督のジャン=バティスト=ルイ・ル・プレヴォ・デュケネルが10月9日に亡くなって、おじに当たるルイ・デユポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴが総督に就任しているのに気付いた。 この包囲戦により、フランス軍は、アナポリスロイヤルの攻撃には、大砲とカノン砲が必要であること、兵士を危険にさらしても得るものはほとんどないことをさとった。フランスが包囲戦で成功するには、陸軍を支援するだけの海軍の力が必要だった。また、イギリスに反抗するアカディア人の数頼みではいけないことをも悟った 。 この包囲戦でデュヴィヴィエは、戦略面そして心理面で優位だったにもかかわらず、和解に持ち込もうとしていたとも言われる。これには、ロワイヤル島総督のデュケネルが病身であり、ルイブールからの命令が今一つはっきりしなかったせいもあると言われている。 1744年10月22日、マサチューセッツはミクマク族に対して正式に宣戦布告をした。ミクマク族のすべての男女、子供の首に賞金が懸けられた。
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