二度目の即位
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「ミハイ1世 (ルーマニア王)」の記事における「二度目の即位」の解説
カロル2世の10年間の親政は安定せず、1940年に元国防相のイオン・アントネスクの圧力によってカロルは退位に追い込まれて再び亡命、ミハイが王位に返り咲くことになった。 ミハイ1世の二度目の統治は、憲法への宣誓と議会の信任抜きで、憲法に違反した王として行われた。ミハイ1世は戴冠式の代わりに、二度目の即位から間もない1940年9月6日に、ブカレストの総主教座大聖堂にてルーマニア正教会総主教ニコディム・ムンテアヌ(英語版)によって王として聖別された。ミハイ1世は二度目の在位期間中、ルーマニア王国の歴史においての唯一の「神の恩寵下にある」完全に非憲法的な神権的君主であった。 しかし、法的にはミハイ1世は軍の最高指導者や全権を有する国家指導者(英語版)の任命といった幾つかの大権を除き、ほとんどの権限を行使することができなかった。国家指導者に就任したアントネスクが、ルーマニアの独裁権を握った。1941年6月、独ソ戦が始まると、アントネスク支配下のルーマニアも枢軸国側に立って参戦した(第二次世界大戦下のルーマニア)。
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二度目の即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 15:02 UTC 版)
ところが1622年に後任で甥のオスマン2世がイェニチェリに殺害されると再び即位することとなった。この時も実権は母のハリメ・スルタンが握っていた。 しかしその後も政治的に不安定な状況が続き、イェニチェリと騎兵隊の間の紛争と、それに続くエルズルム州総督のアバザ・メフメド・パシャがオスマン2世の殺害に反発し蜂起したとき、これに対処するために大宰相のカラ・ダヴド・パシャを処刑することで混乱を収めようとしたがアバザ・メフメド・パシャは反乱を続けたため、新たな大宰相ケマンケシュ・アリ・パシャがハリメ・スルタンに息子を退位させるように説得し、ハリメはムスタファの命の保障を条件にこれに同意した。その後アフメト1世とキョセムの息子である11歳のムラト4世が1623年に即位し、ムスタファは母親と共に旧宮殿に送られた。
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