二度目の円覚寺管長から 遷化まで
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「釈宗演」の記事における「二度目の円覚寺管長から 遷化まで」の解説
1911年、朝鮮を約一ケ月巡錫、翌年には満洲を巡錫、更に1913年には台湾を巡錫した。そして翌年の1914年、臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長に就任。学長職は、1917年に辞職するまで務めた。 1916年、円覚寺派管長に再び選ばれた。この時は法嗣弟子の古川堯道を僧堂師家に任じて自らは管長職のみとした。またその年の10月には、『碧巌録』を講了したので碧巌会を閉じた。この年の12月9日には、弟子である文豪の夏目漱石の葬儀の導師を引き受けた。戒名も宗演が授与している。そして1917年には中国を約三ケ月に亘って巡錫した。 1919年、肺炎のため遷化。世寿六十一。。61歳。
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