二度目の帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 14:21 UTC 版)
「ルカーチ・ジェルジュ」の記事における「二度目の帰国」の解説
第二次世界大戦後、ドイツ語圏にとどまるよう説得する周囲の制止を振り切り、ルカーチは自らの強い意志でハンガリーに帰国する。ルカーチの帰国に際し、彼の抱える書籍と資料を運搬するため、ソ連から一機の小型爆撃機が提供されたといわれている。 ハンガリーに帰国したルカーチはブダペスト大学で教鞭を執り、1949年にはハンガリー科学アカデミーの会員に選出される。数々の著作、個人的な権威、教育活動によって、ルカーチはハンガリー内で強い影響力を有していた。第二次世界大戦後に知識人を中心とするハンガリーの人々は、マルクス主義、マルクス主義の観点を通した文化芸術をルカーチの著作によって知ることができたが、同時にルカーチの「誤った」修正主義的性格も彼らの中に植えつけられた。1945年に再刊された論文集『文筆家の責任』には、1939年から1941年にかけてハンガリーのイデオロギー、政治について述べた論文が収録されている。しかし、ハンガリーの反体制派のイデオロギー状況は第二次世界大戦を経て大きく変化し、論文の主張は具体的現実性を持たないものになっていた。 1948年から1957年までルカーチは世界平和評議会の会員を務め、1948年と1955年にコシュート賞を授与される。帰国後に著した『若きヘーゲル』、『理性の崩壊』などの著書により、ルカーチは東側世界の代表的思想家としての評価を確立するが、教条主義の力が増したハンガリーの政界・文学界での活動の場は次第に失われていった。ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判から強い影響を受けてハンガリーにおけるスターリン的教条主義を攻撃した。 1956年のハンガリー動乱(ハンガリー革命、ハンガリー事件)において、ルカーチは革命によって樹立されたナジ・イムレの政権に参加するが、ソ連のハンガリー侵入後にルーマニアに亡命する。翌1957年にハンガリーへの帰国を認められるが、政界からの引退を強いられる。
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