二度目の東ローマ帝国遠征
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「イーゴリ1世」の記事における「二度目の東ローマ帝国遠征」の解説
『原初年代記』によると、944年、イーゴリは、ヴャリャーグ人、ルーシ人他の諸族の戦士らにくわえ、ペチェネグ人から人質を取り、彼らを傭兵として雇った。ギリシア人に復讐するためである。 遠征に向かう途中、人々は、皇帝ロマノス1世レカペノスにルーシ軍の巨大さを伝えた。皇帝はイーゴリの元に貴族を遣わし、交渉させた。ルーシが侵攻をやめるならば、貢物をたくさん送るというものである。イーゴリは親兵隊(ドルジーナ)を集めて相談した。親兵隊たちは言った。 もし皇帝がそのように言うならば、我らにはそれ以上何が要ろう? 戦わずして金と銀と織物を得るであろう。我らと彼らと、いずれが勝つか、いずれに海が与するか——誰が知ろう。地上を行くのではなく、海の深みに沿うて行くのではないか、すべての者に共通の死があるのではないか — イーゴリのドルジーナたち、『ロシヤ年代記』 除村吉太郎訳 彼らの言葉にイーゴリは深く納得して従い、ギリシア人から貢物を取るとキエフに引き返した。ドゥルジーナたちの助言は、復讐より貢物を優先するものであった。9世紀から10世紀のキエフ・ルーシでは、森林や河川、沼沢地などで漁猟や採集に生きる人々と農村が入り交じり、その中心に戦士たちを中心とした族長が住むといった社会である。巡回徴貢が可能なほどには産業が発展していたといえど、支配地域からの貢税は少量であり、貢税を求めて豊かな地に遠征するのは、権力を得るための富を一挙に手に入れる手段であり、むしろ戦士や族長ら、支配階級の「生業」であるといえた。
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