二度目の寄港と乗組員捕縛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:57 UTC 版)
「ブレスケンス号事件」の記事における「二度目の寄港と乗組員捕縛」の解説
すでに日本では鎖国体制が完成しつつあり、1639年(寛永16年)にはポルトガル人が追放され、1641年(寛永18年)にはオランダ人も出島に移され、そこでのみの交易を許されていた。外国人上陸の話を村民から聞いた藩の役人は、ポルトガル人の可能性があるとして、再度外国人が上陸した場合には捕らえるようにと指示した。7月28日、ブレスケンス号が再度入港してきたが、このとき遊郭から女郎を呼んで乗組員を歓待した。すっかり安心していると、船長スハープ以下10人の乗員は捕縛されてしまった。当時の日本人が外国人との意思疎通に用いていた言語はポルトガル語であった。幸い、スハープはスペイン語が話せたため、何とか自分達がオランダ人であることを説明することができた。このため待遇は良くなったが、さらなる取調べのため江戸に護送されることとなった。
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