ポートロワイヤルの戦い
ポートロワイヤルの戦い (1690年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:06 UTC 版)
「ウィリアム王戦争」の記事における「ポートロワイヤルの戦い (1690年)」の解説
詳細は「ポートロワイヤルの戦い (1690年)」を参照 サー・ウィリアム・フィップスが指揮を執るニューイングランド軍は、報復として、アカディアの首都であるポートロワイヤルを攻撃した。これが、1690年に始まったポートロワイヤルの戦いである。フィップスは7隻から成るイングランド艦隊に、736人のニューイングランドの兵を乗せていた。アカディア総督のド・メネヴァルは2日間の戦いの後に、条件付きの降伏をした。これにより駐屯隊は教会に監禁され、メネヴァルは自宅に閉じ込められた。ニューイングランド軍は、自分たちのものとなった砦を破壊し始めた。ポートロワイヤルの住民も教会に閉じ込められ、イギリス国王への忠誠を宣言させられた。 フィップスは去ったが、6月にニューヨークからまた軍艦がやってきて、町はよりひどく破壊された。水夫たちは町に火を放ち、町や教会から物を略奪した。ニューイングランド軍が再び去っていき、当時のアカディア総督ジョゼフ・ロビノー・ド・ヴィユボンが、首都を、内陸のより安全なナシュワーク砦(現在のニューブランズウィック州フレデリクトン)に移した。ここは、1699年に、ポートロワイヤルが首都として修復されるまで、アカディアの中心地であった。 1690年9月11日、チャーチは2度目のアカディア遠征のため、300人の兵を率いてカスコ湾に到着した。彼の任務は、アベナキ同盟に占領されているイングランドのペジェプスコット砦(現在のメイン州ブランズウィック)を解放することだった 。チャーチはリヴァモアフォールズから40マイル(64キロ)上流に行き、インディアンの集落を攻撃した。チャーチの部隊は3人または4人のインディアンを銃撃し、彼らは撤退した。チャーチは、イングランド兵たちがウィグワム(インディアンの小屋)の中にいるのを発見した。6人または7人のインディアンを虐殺し9人を連れ去った。数日後、アベナキ同盟の部族が、報復としてパープードックポイントのケープエリザベスでチャーチ軍を襲い、兵を7人殺し、24人を負傷させた。 ウィリアム王戦争中、ポストロード沿いに、80軒の入植者の家や丸太小屋が立ち並ぶウェルズの町が、1691年6月9日に襲撃にあった。襲撃したのは、族長モクサス指揮下の200人のインディアンだった。民兵隊大尉のジェームズ・コンヴァースと兵たちは、門つきの砦柵の中にいた中尉ジョセフ・ストアラーの駐屯隊を守った。もう一人の族長であるマドカワンドが、翌年また来るとニューイングランド兵を脅かした。 インディアンたちは撤退と共に、ケープネディックから離れた場所にあるヨークへ行き、そこの船の1隻に乗り込んで乗組員のほとんどを殺し、また集落をも焼いた。 1692年の始め、およそ150人のアベナキ族とテュリ神父がヨークで、イングランド系入植者を約300人殺害または捕囚して集落を焼いた。これはキャンドルマスの虐殺として知られるようになった。 その1692年にチャーチの3度目のアカディア遠征が行われ、この時彼は、450人の兵を連れてペノブスコット(現在のインディアンアイランド)を襲撃した チャーチと兵たちはその後タノコック(現在のメイン州ウィンスロウ)を襲撃した。 1693年、ニューイングランドのフリゲート艦がまたもポートロワイヤルを攻撃し、12軒の民家のほとんどと、穀物でいっぱいになっていた3つの納屋を焼いた。 1694年7月、フランス人士官のクロード=セバスチャン・ド・ヴィユーと、アベナキの族長ボモシーンに率いられた約250人のアベナキ族が、イングランド集落であるニューハンプシャーのダラム(オイスターリバー)を襲った。その後1696年の8月に、ヴィユーはサンキャスタンと共に、ペマキッドの戦いに参戦した。
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