ポートロワイヤルの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 05:00 UTC 版)
「ケベックの戦い (1690年)」の記事における「ポートロワイヤルの占領」の解説
ヌーベルフランスは、北アメリカ最大の規模といわれていたが、居住者の数においては、隣接するニューイングランド、そしてニューヨーク地区に劣っていた。1689年の時点で、ヌーベルフランスの人口は1万4千人で、その大部分は精巧な造りの要塞の中の町に住んでいた。1690年、フィップスはマサチューセッツ植民地の少将に任ぜられ、アカディアへの遠征隊の指揮を執った。7艘の船に、450名の、民兵から成る歩兵連隊を乗せ、ポートロワイヤルを5月21日に陥落させた。総督のルイ=アレクサンドル・デ・フリシェ・ド・メネバルには約70名の兵しかおらず、大砲もなく、抵抗するのは不可能だった。5月22日、フィップスはこう記録している。「われわれは十字架を切り捨て、教会に射撃し、祭壇を引きずり倒し、聖像を壊した」また23日にはこう記している。「陸と海からと、そして庭園の地下から略奪を続けた」 このことはヌーベルフランスの住人を驚かせた。彼らの住む植民地の首都ケベックが、次の目標ではないかと恐れた。ケベックは1690年の時点では、城壁の範囲は狭く、海に面していない北と西の方角は無防備であった。70年近く後のエイブラハム平原の戦いで、とりわけその無防備さは強調されることになった。この時、2度目の総督の任期でケベックに戻っていたフロンテナックは、サンルイ城からサンシャルル川まで、木の柵を張り巡らせて町を取り囲むように指示を出した。町の憲兵(major provost)が、恐らくは大砲の弾丸をも跳ね返すであろうこの城壁の、その中にある、11の小さな石造りの砦が築かれるのを監督していた。西側の平原は、陸の方からの防御の拠点であり、カルメル山という名の風車小屋のところに、3つの砲台が適切な位置で据えられていた。防御の柵はケベックの東の端、病院の近くまで続いていた。川に面した砲台も改良され、8砲がサン=ルイ城のそばに、6台の18ポンド砲が波止場に据え付けられた。アッパータウンへ向かう通りに、臨時の城壁が取り付けられた。
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