ポートロワイヤル攻略とは? わかりやすく解説

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ポートロワイヤル攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)

ウィリアム・フィップス」の記事における「ポートロワイヤル攻略」の解説

イングランド国内混乱ウィリアム3世即位により、フランスイングランド宣戦布告をした。ヌーベルフランス総督ジャック=ルネ・ド・ブリゼ・ド・デノンヴィユはニューイングランドニューヨーク混乱つけこんで1689年から1690年はじめにかけて、一連のインディアン奇襲北方国境横切って仕掛けたマサチューセッツ植民地政府アンドロス逮捕した後、この奇襲備えて兵を召集し、そして1690年3月フィップス一般裁判所任命されアカディアフランス人相手遠征指揮した。7隻の艦から成る艦隊700人を超える兵を載せ4月の末にボストン発ち6月始めアカディア首都ポートロワイヤル到着した。既に5月9日に、フィップス総督ルイ=アレクサンドル・デ・フリーシュ・ド・メネヴァルに降伏勧告していた。総督メネヴァルは荒れ果てた砦に駐屯する70人の兵の指揮官で、降伏条件手早く進めた翌日フィップスが岸に出てみると、アカディア人たちが財宝移動させていた。そのうち一部政府のもので、それゆえ勝利軍のものとなるはずだった。フィップスは、今もなお歴史家議論の的となっているが、この移動降伏条件をふみにじったとし、ゆえに合意無効宣言した。そして自らの軍に、町での略奪教会破壊許し口頭での合意では禁じたはずの掟を破った。また砦を壊し武器をすべて砦から運び出したアカディアを発つ前にフィップスは、イングランド国王への忠誠を誓うように多くアカディア人説き伏せ住民による議会で町の行政を行うように約束させ、しかる後に、メネヴァルと駐屯隊を捕囚して船に乗せボストン戻ったボストンではフィップス英雄として歓迎され惜しみない賛辞与えられたが、一部では批判されフランスアカディア歴史においては中傷された。それはアカディアでの略奪行為行っためだった。メネヴァルは、フィップス奪った財宝銀器とその他小物)を返還するように願ったが、返還はなされなかった。

※この「ポートロワイヤル攻略」の解説は、「ウィリアム・フィップス」の解説の一部です。
「ポートロワイヤル攻略」を含む「ウィリアム・フィップス」の記事については、「ウィリアム・フィップス」の概要を参照ください。

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