ポートロワイヤル攻略
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「ウィリアム・フィップス」の記事における「ポートロワイヤル攻略」の解説
イングランド国内の混乱とウィリアム3世の即位により、フランスはイングランドに宣戦布告をした。ヌーベルフランス総督のジャック=ルネ・ド・ブリゼ・ド・デノンヴィユはニューイングランドとニューヨークの混乱につけこんで、1689年から1690年のはじめにかけて、一連のインディアンの奇襲を北方の国境を横切って仕掛けた。マサチューセッツ植民地の政府はアンドロスを逮捕した後、この奇襲に備えて兵を召集し、そして1690年の3月、フィップスは一般裁判所に任命されてアカディアのフランス人相手の遠征を指揮した。7隻の艦から成る艦隊に700人を超える兵を載せ、4月の末にボストンを発ち、6月の始めにアカディアの首都ポートロワイヤルに到着した。既に5月9日に、フィップスは総督のルイ=アレクサンドル・デ・フリーシュ・ド・メネヴァルに降伏を勧告していた。総督メネヴァルは荒れ果てた砦に駐屯する70人の兵の指揮官で、降伏条件を手早く進めた。 翌日フィップスが岸に出てみると、アカディア人たちが財宝を移動させていた。そのうちの一部は政府のもので、それゆえに勝利軍のものとなるはずだった。フィップスは、今もなお歴史家の議論の的となっているが、この移動は降伏条件をふみにじったとし、ゆえに合意は無効と宣言した。そして自らの軍に、町での略奪と教会の破壊を許し、口頭での合意では禁じたはずの掟を破った。また砦を壊し、武器をすべて砦から運び出した。アカディアを発つ前に、フィップスは、イングランド国王への忠誠を誓うように多くのアカディア人を説き伏せ、住民による議会で町の行政を行うように約束させ、しかる後に、メネヴァルと駐屯隊を捕囚して船に乗せ、ボストンへ戻った。ボストンではフィップスは英雄として歓迎され、惜しみない賛辞が与えられたが、一部では批判され、フランスやアカディアの歴史においては中傷された。それはアカディアでの略奪行為を行ったためだった。メネヴァルは、フィップスが奪った財宝(銀器とその他小物)を返還するように願ったが、返還はなされなかった。
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