ポートロワイヤルへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 14:18 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1710年)」の記事における「ポートロワイヤルへの遠征」の解説
その後何年間か、フランスは、ポートロワイヤルに大きな支援はできなかった。一方でイギリスは、北アメリカで起こるであろう戦争のために、兵士を増員し、より組織化された軍を派遣した。スコットランド出身で、入植地とのつながりもある実業家サムエル・ベッチが、1708年にロンドンに出向いて、ヌーベルフランスを征服するための軍事的援助を、アン女王に陳情した。1709年、この、アカディアとカナダをすべて制圧する「大いなる事業」を女王は認可したが、約定したはずの支援が実現せず、この計画は頓挫した。ベッチと、イングランド人で、かつてメリーランドとバージニアで総督を務め、その後本国に戻ったフランシス・ニコルソンとは、再び女王に支援を要請した。2人は4人の先住民の族長と行動を共にしており、この族長たちは、ロンドンで注目の的となっていた。ニコルソンとベッチは、植民地の利益のために、ポートロワイヤルへのイギリス軍の支援について、うまく女王を説き伏せた。 1710年の7月15日、ボストンに到着したニコルソンは、アン女王から「ノバスコシアの、ポートロワイヤル制圧のための遠征に雇われた、すべての、様々な軍の総司令官、そして総督」という長い肩書をもらっていた。イングランドから連れて来た400人の海兵隊員のほかに、ニューイングランドの4つの植民地では民兵を募集していて、マサチューセッツ湾で900人、ロードアイランドで180人、コネチカットで300人、そしてニューハンプシャーで100人の民兵が集まった。植民地の兵も、イギリス海軍の、清教徒の士官ポール・マスカレンから、包囲戦の技術について教わっていた。イロコイ族の部隊も、遠征の斥候として召集された。そして9月29日、36隻の輸送船と、2隻の臼砲艦、そして5隻の軍艦から成る艦隊が出港した。ファルマス(en:HMS Falmouth (1708))とドラゴン(en:HMS Dragon (1647))の2隻はイングランドから派遣されたもので、フィーバーシャム(en:HMS Feversham (1696))とローウェストフトはニューヨークから、既にボストンに配置されていたチェスター(en:HMS Chester (1708))と合流した。ニコルソンは、ポートロワイヤルまでの航海の難所であるディグビー・ガットへの対処のため、艦隊の先頭にチェスターを入れた。 ポートロワイヤルは、300人の部隊が守っていたが、兵の多くは、フランス本国で召集され、あまりきちんとした訓練を受けていない者たちだった。ダニエル・ドージュ・ド・スーベルカスは、1707年の戦い以来、防御の改善や、防弾機能のある火薬庫や兵舎の建造、相手の攻撃に対して、視界の邪魔になる樹木を川岸から取り払うなどの策を取っていた。スーベルカスは、海上の戦力となる新しい船も作っており、ニューイングランドの漁業や船に対して、莫大な効果を上げている私掠船も雇っていた。この私掠船の捕えた捕虜たちから、1708年、そして1709年にも、ポートロワイヤルへの新たな攻撃が、引き続き計画されているという情報を入手していた。
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