アカディアのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 07:22 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1690年)」の記事における「アカディアのその後」の解説
フィップスは、アカディアの小作人に、当時の共同統治者、国王ウィリアムと女王メアリーとに忠誠を誓わせようとした。また、新しい政府をアカディアに作ろうともした。自ら、アカディアのフランス系住民を選任して議会を作り、暫定的政府を組織したが、この議会による政府は長くは続かなかった。メネバルの補佐官であるジョゼフ・ロビノー・ド・ヴィユボンが、6月にフランスからポートロワイヤルに戻って来て、フランス人による行政府を再建したのである。彼は首都を、防御の意味からサンジャン川に移転し、アベナキ族との提携で軍事活動を改善した。フィップスの遠征隊が帰国してほどなく、ポートロワイヤルは海賊の襲撃に晒され、ヴィユボンがフランスからのって来た船を奪い、建物を壊して家畜を殺した。伝えられるところでは、一部の住民も殺害されたと言われる。 フィップスはシプリアン・サウザックをポーキュパインの指揮官に派遣し、アカディア半島の大西洋岸にある漁港を襲うように命令した。サウザックはチェダブクトにあるサン・ルイ漁港の征服を進めて行った。フィップスはボストンに戻った。その年の後半に、フィップスはやはりボストンからケベックに遠征したが、これは失敗に終わった。フィップスはニューイングランドではなおも人気があり、1692年に、イギリス国王ウィリアムから総督に任命された。彼は、1694年の終わりに召喚されるまで、戦争に関わりつづけた。 この遠征は、ニューイングランド住民と、フランス帝国の上層部との関係が、着実に悪化して行く時代のまさに頂点に行われ、両者の関係は見直しをせまられた。交易も影響を受け、ジョン・ネルソンが中心となっていた、ミクマク族やアカディア人との取引は儲けは多かったが、遠征を統御するのには失敗した。
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