アカディアとニューイングランドとは? わかりやすく解説

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アカディアとニューイングランド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:06 UTC 版)

ウィリアム王戦争」の記事における「アカディアとニューイングランド」の解説

アカディアとニューイングランドを戦場とした戦いは、キャスタン戦争として知られる大同盟戦争勃発1689年、ペノブスコット族をはじめとするアベナキ同盟イングランド入植地への攻撃再開し以前にもまして激しく襲撃するようになった。その年の6月数百人のアベナキ族とペナコック族が、カンカマガス (Kancamagus) とメサンドウィット (Mesandowit) とに率いられニューハンプシャードーバー攻撃して住民20人以上を殺し29人を連れ去った。この29人は奴隷として売買されと言われる。ソコーでも4人が殺された。これらの襲撃への対応として、24人の中隊召集され遺体探索インディアンたちの追跡当たったが、インディアンとの戦いで4分の1戦死したため、帰還余儀なくされた。 1689年8月ジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サンキャスタンとルイ=ピエール・テュリ神父アベナキ戦闘集団率いて、ペマキッド(現在のメイン州ブリストル)を攻略して砦を破壊したイングランドにとって、ペマキッドの陥落大きな挫折となり、アカディアとニューイングランドの境界線は、メインカンゾファルマス)にまで戻された。 ニューイングランドはこれへの報復として、ベンジャミン・チャーチアカディア襲撃させた。ウィリアム王戦争の間、チャーチニューイングランド襲撃隊を率いてアカディア人アベナキ同盟諸族との対戦のため、メインを含むアカディアへの遠征を、この戦争の間4度繰り返した1689年9月21日最初アカディアへの遠征で、チャーチ250人の軍勢は、ファルマスとどまろうとするイングランド人入植者を敵から守ったアベナキ同盟諸族の反撃により、チャーチ軍の21人の兵が戦死したが、チャーチ自身防御功を奏しインディアンたちは撤退したその後チャーチは、無防備なイングランド人入植者その場残してボストン戻った翌年の春、キャスタンが率い400人のフランスインディアン部隊が、サーモンフォールズ(現在のメイン州バーウィック)を破壊してからファルマス戻りロイヤル砦の戦いファルマスすべてのイングランド人入植者虐殺したその後チャーチは、夏になってファルマス集落戻り遺体埋葬したロイヤル砦の陥落により、メイン人口減少したため、インディアンたちは、報復されことなくニューハンプシャーとの境界攻めることができるようになった

※この「アカディアとニューイングランド」の解説は、「ウィリアム王戦争」の解説の一部です。
「アカディアとニューイングランド」を含む「ウィリアム王戦争」の記事については、「ウィリアム王戦争」の概要を参照ください。

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