大きな挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/02 05:04 UTC 版)
「アーネスト・ジョイス」の記事における「大きな挫折」の解説
ロス海支隊を運んだオーロラのオーストラリア出港は、組織と財政に関わる一連の挫折のために遅れた。マクマード・サウンドに着いたのは1915年1月16日になっていた。補給所設置の旅に出るには大変遅い季節になっていた。マッキントッシュは、シャクルトンの本隊が最初のシーズンに大陸を横断する可能性を信じて、遅滞なくそりによる物資運搬を始めるよう主張した。その計画では南緯79度と同80度に補給所を置く考えだった。ジョイスがそれに反対した。隊員と犬には環境に慣れさせ訓練する時間を多く取るべきと主張した。しかし、マッキントッシュの意見が通った。このときシャクルトンがその年は横断を断念したのを知らなかった。 マッキントッシュは補給所設置の旅を自分で率いて行くと判断して、ジョイスを更にいらいらさせた。そりの旅についてはジョイスが干渉を受けない権限があると主張したにも拘わらず、曲げられなかった。隊は2つのチームに分けられ、混乱した雰囲気の中で、旅は1月24日に始まった。当初グレート・アイス・バリア上を移動するという試みは表面の状態によって妨げられ、マッキントッシュのチームはエバンス岬とハットポイントの間の海氷で道に迷ってしまった。ジョイスは隊長の経験が足りない証拠を見せられて密かに嘲笑していた。2月9日、2つのチームはやっと南緯79度地点に到達し、そこに「ブラフ・デポ」を置いた(この緯度ではミンナブラフが目につく印だった)。ジョイスのチームが容易にやってきたように見えた。マッキントッシュは犬達を連れて南緯80度まで行く考えであり、それが再度ジョイスとの間で言い合いになった。既に犬の数頭が死んでおり、残りの犬も将来の旅のために温存しておく必要があるというのがジョイスの主張だったが、このときもマッキントッシュの意見が通った。2月20日、隊は南緯80度に達して、そこに補給物資を置いた。この旅の結果、南緯80度の補給所に105ポンド (48 kg) の食料と燃料を置き、南緯79度の補給所に158ポンド (72 kg) 食料と燃料を置いたが、さらにその先の補給所のために、450ポンド (200 kg) の物資を置いて荷物を軽くした。 このときまでに隊員も犬も疲れていた。帰りの道ではバリアの気象にも妨げられ、ジョイスが予測したように犬が全滅し、隊員が3月24日にハットポイントに戻ったときは疲弊し、激しい凍傷に掛かっていた。海氷の状態のためにハットポイントで10週間も留め置かれ、エバンス岬の基地にはやっと6月2日に戻って来た。そこでは、岸の隊の物資の大半がまだ積まれたままだったオーロラが強風の中で係留地点から流され、遠い海に行ってしまったので直ぐに戻る可能性が低いことを知らされた。幸いにも船が吹き流されるまえに、次のシーズンの補給所設置用物資が陸揚げされていた。しかし、岸の隊の食料、燃料、衣類、装置の大半は持っていかれてしまった。それに代わるものとして1910年から1913年のスコットによるテラノバ遠征でエバンス岬に残されていた物資から補い、またアザラシの肉と脂肪で補給した。このような環境下では、ジョイスが「ゴミあさりの名手」かつ即興の仕事師としての価値を発揮し、スコットの捨てられた物資を掘り出した。その中には大きな帆布があり、それから衣類も縫製することができた。また500個のキャラコの袋も縫って作り、補給所の食料を入れる袋とした。
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