スーパーカー開発
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「ジャンパオロ・ダラーラ」の記事における「スーパーカー開発」の解説
パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ出身。ミラノ工科大学で航空力学を専攻し、1959年に博士号を取得して母国の自動車メーカー『フェラーリ』に入社。モータースポーツの仕事に携わり、カルロ・キティの下でエンジニアリング・アシスタントを担当した。1年半後には『マセラティ』へ移籍し、カーレースのブランドから撤退するまで在社。 1963年、新興メーカーであった『ランボルギーニ』にスカウトされ、チーフエンジニアの地位に就く。ここで同僚のパオロ・スタンツァーニやボブ・ウォレス、マルチェロ・ガンディーニ(ベルトーネ社)らと共同で、初期の代表車種である「ミウラ」や「エスパーダ」などを開発した。ミウラでレースに参戦するのを目標に開発を進めたが、フェルッチオはレース参戦の意思はなく、このことが原因で、1968年にランボルギーニを退社し、直後にはダラーラ・アウトモビリでウォルター・ウルフの依頼でウォルター・ウルフ・カウンタックを改造作成した。 一方で、フェラーリやマセラティ時代に体験したフォーミュラカーの開発も熱望しており、ランボルギーニでも計画していたが途中で頓挫。実現のために1969年から『デ・トマソ』に移籍する。F2マシンやフランク・ウィリアムズ(後のウィリアムズF1チーム代表)率いる『フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ』のF1マシン設計を担当した。しかし開発した「デ・トマソ・505/38」は性能が不足しており、1970年のF1世界選手権で死亡事故が起きてしまう。デ・トマソはプロジェクトから手を引き、本人は大きな挫折を味わった。
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