デ・トマソとは? わかりやすく解説

デ・トマソ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/15 09:59 UTC 版)

Automobili DeTomaso S.p.A
業種 自動車産業 
設立 1959年 
創業者 アレッサンドロ・デ・トマソ 
本社
親会社 フォード・モーター 

デ・トマソまたはデ・トマゾ: De Tomaso)は、イタリアの自動車メーカーである。

1959年アウトモービリ・デ・トマソ (Automobili De Tomaso) として、アルゼンチン出身のアレッサンドロ・デ・トマソイタリアモデナにて設立した。アレハンドロは技術者でも、新事業を積極的に立ち上げることに野心を燃やす実業家でもなく、レーサーとして腕を鳴らした人物だった。2003年にアレハンドロが亡くなり、会社は2004年5月に解散された。その後2009年11月、フィアットの元重役であったイタリアの実業家ジャン・マリオ・ロシニョーロが商標権を取得。2011年ジュネーブモーターショーにて「デ・トマソ」ブランドで新型車を発表、新生デ・トマソとして復活したが、資金不足により再び解散。

2019年に香港のアイディアル・ベンチャーズより再び復活する[1]

エンブレムはアレハンドロの母国・アルゼンチンの国旗にも使われる「水色・白・水色」の配色に古代エジプト女神イシス」を表す象形文字ヒエログリフ)を組み合わせたもの。アレハンドロは「妻・イザベル」のイニシャルと称していたというが、その主張に従うとアレハンドロ自身は冥界の王オシリスに当たることから、ローマンカトリックのお膝下たるイタリアではタブー視されていた。

歴史

アレッサンドロ・デ・トマソ

デ・トマソは、はじめから市販車の生産をしていたわけではなかった。起業してからの数年間はフォーミュラマシンの自社製作にほとんどを費やしていた。しかも、コンポーネント製作もフレームに限っての話で、エンジン駆動系は市販のものを搭載していた。

デ・トマソ・ヴァレルンガ

1963年に3台の試作車を発表。このうちの1台であるヴァレルンガ1500は、アルミボディのオープンカーからクーペタイプのFRP製ボディに変更して市販され、マトラ・ジェットに次ぐ、初期のミッドシップロードゴーイング・スポーツカーの1台として名を知られるようになった。エンジンはフォード製、トランスミッションはフォルクスワーゲン製(中身はヒューランド)と非常に堅実で、元来リアエンジン用のトランスミッションは、デ・トマソ製のクラッチ・エンジンアダプターを介して前後逆に取り付けられている。また、リアハブはマグネシウム合金で作られている。

1966年、2台目の市販車はマングスタで、フォードと共同開発した最初の車種であった。デ・トマソ初期においてフォードは、経営判断にかかわるような重要な影響を与えていた。マングスタではフォードのチャレンジャー289 V8エンジンを採用している。マングスタのボディワークはカロッツェリア・ギア[2]でおこなわれている。マングスタは400台程製作された。

デ・トマソ・パンテーラ

1971年にはフォードのスポーツカープロジェクトに参加して生まれたパンテーラを発表。アレハンドロとフォード社社長アイアコッカの関係を象徴するように、カロッツェリア・ギアのボディにフォード・351C-4V V8を載せた上に、アメリカではフォードのリンカーンマーキュリーの契約ディーラーで販売された。パンテーラはデ・トマソ史上最大の生産台数を記録し、商業的にも成功したが、品質の低さでフォードに打撃を与えた。フォードとの契約期間であった1971年から1973年の間には6,128台がモデナで生産された。

1970年代初頭の第一次オイルショックのため、後ろ盾であったフォードが手を引き、フォード向けパンテーラの生産は1973年で終了している。通常の自動車にとっても厳しい時代となったこの時期、大排気量スポーツカーにとってはまさに冬の時代で、スポーツカーメーカーの中には会社解散に追い込まれるところもあった。

しかし、アレハンドロは1975年マセラティの買収を皮切りに、イノチェンティベネリと次々と買収し、1970年代から1980年代にかけて事業拡大という経営方針によって乗り切ろうとした。この時期にはマセラティのビトゥルボが商業的に成功を見たが、依然として品質の低さは解決できていなかった。また、イノチェンティがBLMC・Miniダイハツ製エンジンを搭載した小型車も生産した他、1980年代中盤には、1978年にフォードを解雇され、その後クライスラー会長となったアイアコッカの依頼により、 クライスラーの車体にマセラティのエンジンを搭載した「TC バイ・マセラティ」の生産を行い、販売的には失敗したものの、マセラティとデ・トマソに利益をもたらした。

デ・トマソ自体は1970年代以降、リファインを繰り返しながらパンテーラ、高級サルーンドーヴィル、ドーヴィルの車体を短縮したGTカー、ロンシャンなどを販売していた。

新たに一から設計された車両として1994年になってようやくグアラを登場させたが、少量生産されたのみにとどまった。次いでFR2シーターのスポーツカー、ビグアの開発に賭けることとしたが、度重なる商標権の移動などでデ・トマソとしての販売には至らず最終的にはクヴェール・モデナによってマングスタ(Qvale Mangusta)という車名で販売されることで世に出たものの短命に終わり、MGローバーのクヴェール・モデナ買収によってMG XpowerSVの基礎となった。

パンテーラの生産を打ち切った1993年、創始者のアレハンドロが病に冒され入院。療養していたものの2003年5月21日心不全が原因で他界。2004年5月、会社はアレハンドロの遺族によって解散された。

デ・トマソ・P72

2011年ジュネーブモーターショーにて復活したデ・トマソはコンセプトカーを発表した。しかし2012年、再度資金難に陥り、2014年にモデナ工場を閉鎖、2015年4月、最終的に中国企業に売却された。

その後、2019年にアイディアル・ベンチャーズにより再び復活。同年11月にデ・トマソ・P72を発表[3]。P72はドイツニュルブルクリンク付近に新設された工場で製造された。P72は2023年末に納車が予定されている[4]。 2022年にはサーキット専用車であるP900を発表。18台限定で製造される。[5]

レース活動

デ・トマソ
参戦年度 1961 - 1963 , 1970
出走回数 10
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1961年フランスGP
初勝利
最終勝利
最終戦 1970年アメリカGP
テンプレートを表示

1961年にはアルファロメオを、1970年にはコスワースのエンジンをそれぞれ搭載してF1に参戦したが、結果を残せず早々に撤退した。

1970年の参戦の際にはのちにウィリアムズF1チームを創設するフランク・ウィリアムズがチームの運営を行っていたが、第5戦オランダグランプリピアス・カレッジが事故死したこともあり、わずか1年で再び撤退、以降参戦することはなかった。

1970年シーズンの参戦車両(ティーポ505)

過去の車種

脚注

  1. ^ デトマソ復活へ…『P72』に700馬力のV8スーパーチャージャー搭載が決定”. レスポンス(Response.jp) (2019年10月31日). 2023年10月22日閲覧。
  2. ^ 1967年にアレハンドロに買収されていたが1970年にアレハンドロと関係が深かったイタリア系アメリカ人リー・アイアコッカが社長となったフォードに売却されている。
  3. ^ デトマソ復活へ…『P72』に700馬力のV8スーパーチャージャー搭載が決定”. レスポンス(Response.jp) (2019年10月31日). 2023年10月22日閲覧。
  4. ^ デトマソ復活、『P72』をニュルブルクリンクの新工場で生産へ…納車は2023年から”. レスポンス(Response.jp) (2022年1月14日). 2023年10月22日閲覧。
  5. ^ https://www.autocar.jp/post/883088

関連項目

外部リンク


デ・トマソ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/06/01 04:56 UTC 版)

カロッツェリア・フィッソーレ」の記事における「デ・トマソ」の解説

デ・トマソ社のためにフィッソーレ社はミッドシップ・エンジンのヴァレルンガをデザインし、1台だけのスパイダー試作車開発したがこれは量産されなかった。約15台のクーペ生産されたが、これは当時アレハンドロ・デ・トマソ (Alejandro de Tomaso) が所有権一部保持していたカロッツェリア・ギア担当した

※この「デ・トマソ」の解説は、「カロッツェリア・フィッソーレ」の解説の一部です。
「デ・トマソ」を含む「カロッツェリア・フィッソーレ」の記事については、「カロッツェリア・フィッソーレ」の概要を参照ください。

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