デトロイト・タイガース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/22 22:53 UTC 版)
「ブランドン・インジ」の記事における「デトロイト・タイガース時代」の解説
1998年、デトロイト・タイガースからドラフト2巡目(全体57位)指名を受けプロ入り。入団直後に球団の方針により捕手へ転向する。 2001年4月3日にメジャーデビューし、この年は79試合に出場した。 2003年までタイガースの正捕手格の選手としてプレイする。 2002年には出場試合数が100を下回っているのにチーム最多の101三振を記録するなど、強肩以外に見るべきところもない選手であり、インジ自身もメジャーに残るためだけに好きでもなく不慣れな捕手を続けるしかなかった。しかし、この捕手の経験がプロの試合というものを早く理解することに役立ち、いい経験となったという。 2004年、メジャーを代表する捕手のイバン・ロドリゲスがタイガースに加入。これに伴いインジはユーティリティープレイヤーとなり、この年の前半戦は捕手・三塁手・外野手など様々なポジションで出場する。しかし後半戦からは外野手としての起用が少なくなり、主に三塁手として出場するようになった。 2005年にインジは正三塁手となり、自己最高の160試合に出場した。 2006年には9番打者ながら27本塁打を記録して、タイガースのリーグ優勝に貢献している。 2007年のシーズン終了後、強打の三塁手ミゲル・カブレラがマーリンズからトレードでタイガースに加入した。カブレラとポジションが重なるインジは、控えになるのも捕手に戻るのも望まず、チームに移籍希望を伝えていたが、チームは放出をしなかった。結局2008年シーズンは控えの三塁手、外野手、捕手としてプレーすることとなった。 2008年は、控え選手になったという事情もあり、4年ぶりに規定打席到達を逃すシーズンとなった。ポジション別で見ると、捕手として60試合、三塁手として51試合に出場したほか、外野手としても試合に出場した。打撃成績では、前述の通り規定打席到達を逃しただけでなく、自身3度目の打率.210以下を記録してしまった。しかし、11本塁打・51打点を記録し、5年連続での2ケタ本塁打を記録した。 2009年は、カブレラが一塁手としてプレイする事になった為、インジは年間通じて三塁を守った。結局、全て三塁手として、リーグ最多タイとなる161試合に出場。自己ベストタイの27本塁打を放ち、打点でも2006年に記録した83打点を1打点だけ更新する84打点をマークした。また、自身初のオールスターゲーム出場も果たした。しかし一方で、打率.230という数字は、規定打席に到達したシーズンの中では最低の数字であり、三振170も今までの自己ワースト記録を20も更新する数字となった。 2010年も引き続き出場は三塁手のみだった。打撃面では、7年連続での2ケタ本塁打となる13本塁打を放ったが、これは前年の27本塁打の半分以下の数字である。一方、打率はまたしても.250に届かなかったが(.247)、それでもここ4年間で最もいい数字を残した。課題となっていた三振の多さは、前年比-36と改善された。 2011年は70試合の出場で打率.177、1本塁打、OPS.483と例年を上回る打撃不振に陥り、三塁守備でもDRS-8を喫し、7月26日に40人枠から外れ、AAA級トレドに降格。8月20日にメジャーに昇格した。 2012年は、プリンス・フィルダーの加入があり、控えからのスタートとなった。4月26日解雇された。
※この「デトロイト・タイガース時代」の解説は、「ブランドン・インジ」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース時代」を含む「ブランドン・インジ」の記事については、「ブランドン・インジ」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 03:12 UTC 版)
「ハンク・グリーンバーグ」の記事における「デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)」の解説
1930年 9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかった。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。 1931年 - 1932年 1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:Beaumont Exporters) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった。 1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった。 1933年 3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。 1934年 この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カージナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。MVP投票では6位にランクインした (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。 同年は9月10日がローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦の新年) 、9月18日がヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利した。 1935年 この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王と打点王のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。 多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。 1936年 4月で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。 1937年 手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけである (2015年シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わった。 1938年 この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (1998年にサミー・ソーサも達成) である (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった。 なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある。 1939年 出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだ。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。 1940年 この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった。チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。 1941年 - 1945年 この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した。以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。 終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。 1946年 この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。
※この「デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)」の解説は、「ハンク・グリーンバーグ」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)」を含む「ハンク・グリーンバーグ」の記事については、「ハンク・グリーンバーグ」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:39 UTC 版)
「ブラッド・トーマス」の記事における「デトロイト・タイガース時代」の解説
2010年、6年ぶりとなるメジャーリーグ復帰を果たした。中継ぎとして48試合に登板し、メジャー初勝利を含む6勝2敗、防御率3.89、WHIP1.53を記録した。 2011年は左ひじの故障もあり、12試合に登板して防御率9.00、WHIP2.09を喫し、7月14日に40人枠から外れた。
※この「デトロイト・タイガース時代」の解説は、「ブラッド・トーマス」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース時代」を含む「ブラッド・トーマス」の記事については、「ブラッド・トーマス」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 15:31 UTC 版)
「ボブ・アダムズ (内野手)」の記事における「デトロイト・タイガース時代」の解説
1973年のドラフト3巡目でデトロイト・タイガースから指名を受け、入団。この年はA級のレイクランド・タイガースとAA級のモンゴメリー・レベルズでプレイし、レイクランドではリーグ8位となる打率.307を記録した。また、守備では三塁や外野を務めた。 1974年は、前年にもプレイしたモンゴメリーとAAA級のエバンズビル・トリプレッツで主に捕手を務め、AA級では83試合で打率.263、AAA級では27試合で打率.247という成績だった。 1975年はモンゴメリーで捕手として89試合に出場し、打率.283・3本塁打・26打点・出塁率.352を記録。前年のAA級での成績よりも打率や出塁率を向上させた。 1976年は、モンゴメリーで7試合に、エバンズビルで105試合に出場。成績は特段際立ったものではなかったが、モンゴメリーでは外野手として、エバンズビルでは一塁手としても試合に出場した。 1977年、エバンズビルでは一塁手・捕手を務め、62試合・打率.330・10本塁打・44打点と過去最高の打撃成績を記録。7月10日のシカゴ・ホワイトソックス戦で9回裏に代打として出場し、MLBデビューを果たした(結果は三振に倒れた)。その後も代打としての起用が中心となり、スタメンでの起用は3試合に留まったが、初の先発出場の機会となった8月9日のミルウォーキー・ブルワーズ戦では4回裏の第2打席にソロ本塁打を放ち、MLBでの初安打・初本塁打・初打点を同時に達成した。その後、8月26日のカリフォルニア・エンゼルス戦では代打で本塁打を記録し、MLBでの最初のシーズンの成績は、15試合・打率.250・2本塁打・2打点だった。 続く1978年は、1976年までと同様にモンゴメリーとエバンズビルでプレイし、2チームで合計117試合に出場したものの、打率.199・5本塁打・42打点と打撃が冴えず、MLBでの試合出場の機会もなかった。守備では捕手・一塁・三塁・外野をこなすなど器用さを見せたが、この年限りで現役を引退することになった。
※この「デトロイト・タイガース時代」の解説は、「ボブ・アダムズ (内野手)」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース時代」を含む「ボブ・アダムズ (内野手)」の記事については、「ボブ・アダムズ (内野手)」の概要を参照ください。
デトロイト・タイガース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 14:17 UTC 版)
「フランキー・デラクルーズ」の記事における「デトロイト・タイガース時代」の解説
2001年にデトロイト・タイガースと契約。 2007年6月18日の対ワシントン・ナショナルズ戦(ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム)の8回表から登板してMLBデビューを果たす。結果は1イニングを投げて無失点だった。同年12月、ミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスとのトレードでフロリダ・マーリンズに移籍。
※この「デトロイト・タイガース時代」の解説は、「フランキー・デラクルーズ」の解説の一部です。
「デトロイト・タイガース時代」を含む「フランキー・デラクルーズ」の記事については、「フランキー・デラクルーズ」の概要を参照ください。
- デトロイト・タイガース時代のページへのリンク