1973年のドラフトとは? わかりやすく解説

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1973年(高校3年時)のドラフト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:56 UTC 版)

江川事件」の記事における「1973年高校3年時)のドラフト」の解説

1973年江川卓作新学院エースとしてノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録など数々記録残して日本中の注目浴びたプロ球団目に止まるうになるが、江川父親の二美夫は大学進学しプロへ行かない明言。また進学先として慶應義塾大学希望していることも明らかになった。 1973年11月20日ドラフト会議東京日比谷日生会館にて行われ阪急ブレーブスが1位で江川独占交渉権獲得当時ドラフトはくじによって球団指名順位決定する変則ウェーバー方式であったドラフト1位指名では、指名順位上位だった大洋ホエールズ南海ホークス近鉄バファローズ日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズは、進学希望江川指名回避して別選手を指名阪急指名順位6番目だった。なお、このドラフトにおける巨人指名順位10番目だった。 江川ドラフト会議終了した後、午後3時過ぎから作新学院にて記者会見し、「プロへは全く行く気がなかったので、阪急から指名されといっても関係ありませんよ。だからスカウト方にも会うつもりはありません」「出来ればセ・リーグ球団。それも巨人指名され断りたかった」等と語った報道陣過去大学進言公言しながらドラフト指名される翻意してプロ入りした太田幸司仲根正広らを挙げて問うと「ぼくは違います。たとえ親がスカウト攻勢にくずれたとしても、ぼくが反発する」。なぜそこまで頑ななのかと問われると「自信がないから。それに何かまた可能性残されているような気がするので大学進みたい」と答えた。後に江川は「当時大学進学を完全に決めていたので、たぶん巨人であったとしても行かなかったと思う」と語っている 21日阪急球団代表渓間秀典スカウト部長の丸尾千年次栃木県小山市江川自宅訪問江川高校授業のため不在で、父親の二美夫が応対した大学進学意思変わらず交渉今回限りにして欲しいと申し出た阪急冷却期間を置き、12月7日丸尾小山市江川宅を訪問江川本人も二美夫も不在母親美代子しか居なかったがそれを承知の上で訪問だった。丸尾美代子は約40分間話し合ったが、美代子大学進学意志変わらない伝え交渉進展しなかった。 丸尾は翌1974年1月1日元旦の朝午前6時50分、江川宅を訪れ玄関インターホン鳴らした玄関から「江川さん!正月あいさつ参りました」と呼び掛けた応答一切なく、約2時間後に引き揚げた。5日丸尾梅田阪急電鉄本社オーナー森薫訪ねこれまでの交渉報告し江川進学意志固いことから交渉断念することを申し入れて了承され、阪急江川との交渉正式に断念した江川2月18日慶應義塾大学法学部政治学科19日文学部20日商学部の3学部受験。だが23日法学部政治学科第一次3月2日文学部、そして6日商学部合格発表に名前はなくすべて不合格となった7日法政大学第二法学部政治学科受験し13日合格法政大学進学することになった

※この「1973年(高校3年時)のドラフト」の解説は、「江川事件」の解説の一部です。
「1973年(高校3年時)のドラフト」を含む「江川事件」の記事については、「江川事件」の概要を参照ください。

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