1973年(高校3年時)のドラフト
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「江川事件」の記事における「1973年(高校3年時)のドラフト」の解説
1973年、江川卓は作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録など、数々の記録を残して日本中の注目を浴びた。プロ球団の目に止まるようになるが、江川と父親の二美夫は大学へ進学しプロへは行かないと明言。また進学先として慶應義塾大学を希望していることも明らかになった。 1973年11月20日、ドラフト会議が東京・日比谷の日生会館にて行われ、阪急ブレーブスが1位で江川の独占交渉権を獲得。当時のドラフトはくじによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。ドラフト1位指名では、指名順位上位だった大洋ホエールズ、南海ホークス、近鉄バファローズ、日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズは、進学希望の江川の指名を回避して別選手を指名、阪急は指名順位6番目だった。なお、このドラフトにおける巨人の指名順位は10番目だった。 江川はドラフト会議が終了した後、午後3時過ぎから作新学院にて記者会見し、「プロへは全く行く気がなかったので、阪急から指名されたといっても関係ありませんよ。だからスカウトの方にも会うつもりはありません」「出来ればセ・リーグの球団。それも巨人に指名されて断りたかった」等と語った。報道陣が過去に大学進言を公言しながらドラフトで指名されると翻意してプロ入りした太田幸司、仲根正広らを挙げて問うと「ぼくは違います。たとえ親がスカウト攻勢にくずれたとしても、ぼくが反発する」。なぜそこまで頑ななのかと問われると「自信がないから。それに何かまた可能性が残されているような気がするので大学へ進みたい」と答えた。後に江川は「当時は大学進学を完全に決めていたので、たぶん巨人であったとしても行かなかったと思う」と語っている 21日、阪急は球団代表の渓間秀典とスカウト部長の丸尾千年次が栃木県小山市の江川の自宅を訪問。江川は高校の授業のため不在で、父親の二美夫が応対したが大学進学の意思は変わらず、交渉は今回限りにして欲しいと申し出た。阪急は冷却期間を置き、12月7日に丸尾が小山市の江川宅を訪問。江川本人も二美夫も不在で母親の美代子しか居なかったがそれを承知の上での訪問だった。丸尾と美代子は約40分間話し合ったが、美代子は大学進学の意志は変わらないと伝え、交渉は進展しなかった。 丸尾は翌1974年1月1日の元旦の朝午前6時50分、江川宅を訪れ玄関のインターホンを鳴らしたり玄関から「江川さん!正月のあいさつに参りました」と呼び掛けたが応答は一切なく、約2時間後に引き揚げた。5日、丸尾は梅田の阪急電鉄本社にオーナーの森薫を訪ねこれまでの交渉を報告し、江川の進学の意志が固いことから交渉を断念することを申し入れて了承され、阪急は江川との交渉を正式に断念した。 江川は2月18日に慶應義塾大学の法学部政治学科、19日に文学部、20日商学部の3学部を受験。だが23日法学部政治学科の第一次、3月2日の文学部、そして6日の商学部の合格発表に名前はなくすべて不合格となった。7日、法政大学第二法学部政治学科を受験し、13日に合格。法政大学に進学することになった。
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