日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ
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「奈良原浩」の記事における「日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ」の解説
1998年シーズンは開幕当初は代走や二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わり、スタメンで起用されると3割を超える打率を記録し、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着。その後、右肩を痛めた田中幸雄が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の規定打席に到達し、ビッグバン打線の中で貴重なつなぎ役となった。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の出塁率.388を記録し、年俸は2600万円増の7400万円(推定)となっている。 1999年シーズンは田中幸雄が遊撃手に戻り、自身は代走や守備固めなどでの起用が増えた。2000年シーズンは田中幸雄や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた。同年のシーズンオフにはFAの権利を行使し、複数年契約で残留している。 2002年シーズンには監督の大島康徳から指名を受け、主将に就任。同年のシーズンは遊撃手のレギュラーとして期待され、オープン戦では打率.412の好成績を残している。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大により、待球が難しくなったこともあり、打撃不振に陥った。また、札幌市への本拠地移転計画の発表や日本ハム本社の牛肉偽装事件などがあり、チームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている。同年のシーズンオフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した。木元邦之の成長などもあって出場機会は徐々に減った。 2005年シーズンオフには翌年のシーズンの年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている。 2006年シーズンには6月20日、金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍。9月19日の対横浜戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっているなお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対巨人戦で延長12回表に放った適時打であった。古巣・日本ハムとの日本シリーズでは第1戦、第2戦で代走として起用されている。同年のシーズンオフに現役を引退。引退後は二軍内野守備走塁コーチに就任。
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