日本ハムファイターズ監督、常務時代(1976年-1994年)
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「大沢啓二」の記事における「日本ハムファイターズ監督、常務時代(1976年-1994年)」の解説
1975年10月、球団社長の三原脩からの要請を受け、日本ハムファイターズの監督に就任する。就任3年目の78年に日本ハムとして初のAクラス入りを果たし、1979年は就任5年目で初の勝ち越し、1980年は後期シーズンに近鉄バファローズと優勝争いを演じ、公式戦最終戦となる10月7日の後楽園球場での近鉄戦は引き分けでも優勝という大一番を迎えるが、5対6で敗れた(大阪近鉄バファローズ#10.7決戦を参照)。日本ハムは全日程を終了し近鉄の残り試合の結果次第では後期優勝の可能性も残っていたが、近鉄が公式戦最終戦の10月11日の西武戦に10対4で勝って後期優勝を達成し、日本ハムは優勝を逃した。 そして就任6年目の1981年、後期優勝を達成しプレーオフも前期優勝のロッテ・オリオンズを下し、日本ハムとして1974年の誕生以来初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは読売ジャイアンツと対戦し、本拠地が巨人と同じ後楽園球場であったためシリーズ史上初めて全試合同一球場での開催となった。シリーズには巨人に2勝4敗で敗退し日本一とはならなかった。 翌1982年は、前期は新監督の広岡達朗が率いる西武ライオンズが優勝するが、後期は日本ハムが2年連続で優勝した。だが、優勝直前の9月8日にこの年20勝を挙げエースに成長し前期優勝の西武相手に6勝をマークした工藤幹夫が右手指を骨折し、10月の西武とのプレーオフでの登板は絶望的と思われた。ところが、医者から「プレーオフには間に合う」と聞かされると、大沢は一計を案じプレーオフ本番まで工藤は怪我したままであると隠し通す。大沢の作戦は成功し、10月9日のプレーオフ第1戦に右手指の骨折でプレーが不能のはずの工藤が先発登板し、対戦相手の西武を驚かせた。だがプレーオフは西武に1勝3敗で敗れ、2年連続のリーグ優勝は成らなかった。また、工藤はこれで選手生命を縮めたとも言われており、第1期監督時代初期のエースで同年途中に広島から西武へ移籍していた高橋直樹は「日本ハムでは木田や工藤が一年でダメになっているでしょう」と述べている。 1983年は3位となり、1978年から6年連続でAクラス入りを果たすが、大沢はシーズン途中よりこの年限りで監督を辞任しチームを退団することを決意し、オーナーの大社に申し入れた。大社は監督の辞任は認めたものの今後もフロントの幹部として球団に残るよう求め、大沢は退団を翻意して球団に残留し取締役育成部長に就任した。後任の監督には大沢が推薦した一軍投手コーチの植村義信が就任した。だが翌1984年は開幕からチームは最下位に低迷し、植村は6月28日に責任を取り辞任した。大社から植村を推薦した責任を取り残り試合の指揮を執るよう指示されたため大沢が監督に復帰するが、後半戦に球団ワースト記録の14連敗を記録するなどチームの調子は上向かず、1975年以来9年ぶりの最下位に終わった。 1985年からフロントに復帰し1992年までは球団常務取締役を務めた。1986年には二軍投手コーチに村上を招聘した。村上は松浦宏明を一軍に送り出し、松浦は1988年に15勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。1986年頃、『フライデー』、『フォーカス』(以下「FF」)などの写真週刊誌がプロ野球選手を含む有名人のプライベートを掲載し、社会問題にもなったが、日本ハムの選手が登場しないのを嘆き、「『FF』に載れ!」(「FF」に狙われるような選手になれ、の意で)と選手達を叱ったことがある。同じく球団常務時代に日本ハムの試合を観戦に東京ドームに訪れた際、当時『プロ野球ニュース』のキャスターだった中井美穂(フジテレビアナウンサー)から、「常務は野球のルールをご存じなんですか?」と聞かれ笑いが止まらなかったと後日語っている。 1992年は球団OBの土橋正幸が監督に就任するが、5位に終わる。2年契約を交わしてたこともあり、球団は翌1993年も土橋を続投させる方針だったが、監督の土橋と選手の関係が修復不能なほど断絶していることが判明したためこの年限りで解任した。大沢は後任の監督に王貞治と上田利治を候補に挙げるが、王は大沢の打診に対し世界少年野球推進財団の仕事が多忙であることを理由に断り、上田については球団フロントが関西出身の上田では人気が出ないと難色を示した。大沢は「人気者がほしいなら宮沢りえでも呼んで来い」と憤慨するが、その後も後任の監督探しは難航し、球団フロントから懇願され、大社からも直々に説得されたこともあって大沢が監督に復帰することになった。 2度目の監督に復帰した1993年は、前年手薄だった先発ローテを再編するため、抑え役を務めた白井康勝を手薄な先発に再転向。白井に代わる抑えとして新人の山原和敏を抜擢したが後に故障でリタイア。代役として前年に14勝とローテを守りながらも故障で出遅れていた金石昭人をリリーフに転向させると、チームトップの13セーブを記録し、防御2.09と成功させた。主に守備固めだった広瀬哲朗を正遊撃手に起用し、主将にも抜擢。田中幸雄・西崎幸広の復活やリック・シューの活躍もあり、西武と激しいデッドヒートを演じて2位に入る。対ロッテ戦で伊良部秀輝に抑えられた試合後に「幕張の伊良部クラゲに刺されちまった」というコメントを残すなど、試合後の大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあり好評を博し、「親分」の語句はこの年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。だが翌1994年は投打に故障者が続出するなど最下位に低迷。5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位と前年度から大きく数字を落としてしまった。9月29日の本拠地の東京ドームでの最終戦終了後の挨拶を終えた後、ファンの前で土下座して謝罪した。同年限りで監督を辞任し、球団も退団した。
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