日本ハムファイターズ監督、常務時代とは? わかりやすく解説

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日本ハムファイターズ監督、常務時代(1976年-1994年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)

大沢啓二」の記事における「日本ハムファイターズ監督、常務時代(1976年-1994年)」の解説

1975年10月球団社長三原脩からの要請を受け、日本ハムファイターズ監督就任する就任3年目78年日本ハムとして初のAクラス入り果たし1979年就任5年目で初の勝ち越し1980年後期シーズン近鉄バファローズ優勝争い演じ公式戦最終戦となる10月7日後楽園球場での近鉄戦は引き分けでも優勝という大一番迎えるが、5対6で敗れた大阪近鉄バファローズ#10.7決戦参照)。日本ハム全日程を終了し近鉄残り試合結果次第では後期優勝可能性残っていたが、近鉄公式戦最終戦10月11日西武戦10対4で勝って後期優勝達成し日本ハム優勝逃した。 そして就任6年目1981年後期優勝達成しプレーオフ前期優勝ロッテ・オリオンズ下し日本ハムとして1974年誕生以来初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは読売ジャイアンツ対戦し本拠地巨人と同じ後楽園球場であったためシリーズ史上初め全試合同一球場での開催となったシリーズには巨人に2勝4敗で敗退し日本一とはならなかった。 翌1982年は、前期は新監督広岡達朗率い西武ライオンズ優勝するが、後期日本ハム2年連続優勝した。だが、優勝直前9月8日この年20勝を挙げエース成長し前期優勝西武相手に6勝をマークした工藤幹夫右手指を骨折し10月西武とのプレーオフでの登板絶望的思われた。ところが、医者から「プレーオフには間に合う」と聞かされると、大沢一計案じプレーオフ本番まで工藤怪我したまである隠し通す。大沢作戦成功し10月9日プレーオフ第1戦右手指の骨折でプレー不能のはずの工藤先発登板し、対戦相手西武驚かせた。だがプレーオフ西武に1勝3敗で敗れ2年連続リーグ優勝は成らなかった。また、工藤はこれで選手生命縮めたとも言われており、第1期監督時代初期エース同年途中広島から西武移籍していた高橋直樹は「日本ハムでは木田工藤一年ダメになっているでしょう」と述べている。 1983年3位となり、1978年から6年連続Aクラス入りを果たすが、大沢シーズン途中よりこの年限り監督辞任しチーム退団することを決意しオーナー大社申し入れた大社監督辞任認めたものの今後フロント幹部として球団に残るよう求め大沢退団翻意して球団残留し取締役育成部長就任した後任監督には大沢推薦した一軍投手コーチ植村義信就任した。だが翌1984年開幕からチーム最下位低迷し植村6月28日責任取り辞任した大社から植村推薦した責任取り残り試合指揮執るよう指示されたため大沢監督復帰するが、後半戦球団ワースト記録14連敗記録するなどチーム調子上向かず、1975年以来9年ぶりの最下位終わった1985年からフロント復帰し1992年までは球団常務取締役務めた1986年には二軍投手コーチ村上招聘した。村上松浦宏明一軍送り出し松浦1988年15勝を挙げて最多勝タイトル獲得1986年頃、『フライデー』、『フォーカス』(以下「FF」)などの写真週刊誌プロ野球選手を含む有名人プライベート掲載し社会問題にもなったが、日本ハム選手登場しないのを嘆き、「『FF』に載れ!」(「FF」に狙われるような選手になれ、の意で)と選手達を叱ったことがある同じく球団常務時代日本ハム試合観戦東京ドーム訪れた際、当時プロ野球ニュース』のキャスターだった中井美穂フジテレビアナウンサー)から、「常務野球のルールご存じなんですか?」と聞かれ笑いが止まらなかったと後日語っている。 1992年球団OB土橋正幸監督就任するが、5位に終わる。2年契約交わしてたこともあり、球団は翌1993年土橋続投させる方針だったが、監督土橋選手の関係が修復不能なほど断絶していることが判明したためこの年限り解任した。大沢後任監督王貞治上田利治候補挙げるが、王は大沢打診対し世界少年野球推進財団仕事多忙であることを理由断り上田については球団フロント関西出身の上田では人気出ない難色示した大沢は「人気者がほしいなら宮沢りえでも呼んで来い」と憤慨するが、その後後任監督探し難航し球団フロントから懇願され、大社からも直々に説得されたこともあって大沢監督復帰することになった2度目監督復帰した1993年は、前年手薄だった先発ローテ再編するため、抑え役を務めた白井康勝手薄な先発再転向。白井代わる抑えとして新人山原和敏抜擢したが後に故障リタイア代役として前年に14勝とローテ守りながらも故障出遅れていた金石昭人リリーフ転向させると、チームトップの13セーブ記録し防御2.09と成功させた。主に守備固めだった広瀬哲朗を正遊撃手起用し主将にも抜擢田中幸雄西崎幸広復活リック・シュー活躍もあり、西武激しデッドヒート演じて2位に入る。対ロッテ戦伊良部秀輝抑えられ試合後に「幕張伊良部クラゲ刺されちまった」というコメントを残すなど、試合後の大沢ユーモアあふれるコメントマスコミ大々的報じられたこともあり好評博し、「親分」の語句この年新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。だが翌1994年投打故障者が続出するなど最下位低迷。5球団すべてに負け越し打率得点安打打点防御率失点盗塁リーグ最下位前年度から大きく数字落としてしまった。9月29日本拠地東京ドームでの最終戦終了後挨拶終えた後、ファンの前で土下座して謝罪した同年限り監督辞任し球団退団した

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