日本ハムコーチ時代(第1期)
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「吉井理人」の記事における「日本ハムコーチ時代(第1期)」の解説
現役引退後、エージェントが各球団に売り込んだ結果、北海道日本ハムファイターズから連絡を受け、2008年から日本ハムの一軍投手コーチに就任した。当初、吉井自身は、コーチは「最低な職業やな」と思っていたため、「仕方なしにやっていた」という。 その一方で、ロッテは3月11日に、日本ハムとのオープン戦(千葉マリンスタジアム)を吉井の引退試合として開催した。これは、メッツおよびロッテ在籍時の恩師であるボビー・バレンタイン監督の計らいで実現したものであり、打席にもバレンタインが立った。吉井が投手コーチになった時描いた理想像が『仰木さん、野村さん、バレンタイン、権藤さん。この4名。そしてもう一人、メッツの投手コーチボブ・アポダカからも大きな影響を受けています。彼は最初に会った時「自分のことを一番知っているのは自分自身だから、君のことを俺に教えてくれ」と。日本でそういうことを言われたことがなかったので衝撃でした、この言葉がコーチ人生で一番の礎になっているかもしれません。』と語っている。 日本ハムでは、2009年まで一軍投手コーチ、2010年に二軍投手コーチ、2011年から2012年まで再び一軍投手コーチを務めた。2012年のシーズン終了当初は、2013年も一軍で投手コーチを続けることを予定していた。しかし、11月4日に、コーチ契約を更新せずに退団することが球団から発表された。退団へ至った背景に、2012年から一軍監督に就任した栗山英樹との間で投手の起用をめぐって確執があったと報道があったが、後に吉井と栗山は「チームの中には色々な意見があって、そのことには何も思っていない。」と、これを否定している。
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日本ハムコーチ時代(第2期)
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「吉井理人」の記事における「日本ハムコーチ時代(第2期)」の解説
吉井のソフトバンク退団を受けて、日本ハムでは、吉井に対して一軍投手コーチへの復帰を打診。その結果、「(復帰に際して球団・吉井)双方の障壁がなくなった」という結論に達したため、2015年11月29日に吉井の一軍投手コーチ復帰を発表した。日本ハムへは4年ぶりの復帰で、背番号は前回の在籍期間中と同じく81。コーチ復帰の記者会見では、「『(筑波大学の大学院で)研究の道に進もうか』と思った時に、(日本ハムから)熱心に誘ってもらった。今の自分の年齢(50歳)では『まだ現場で指導できる』と思っているので、(誘いを)断る理由も見付からなかった」と述べた。なお、復帰が決まってからは、年末年始を返上しながら修士論文を仕上げた。 2016年には、日本ハムの一軍投手コーチとして、アメリカのアリゾナ州で実施された春季一軍キャンプに帯同。キャンプ開始前の1月上旬に修士論文を筑波大学へ提出できたため、口述試験の結果、修士号の取得が決まった。修士号の授与後は、栗山監督の下で2018年まで日本ハムの一軍投手コーチを務めていたが、同年シーズン終了後の10月16日に退団。退団当初は、浪人生活を送る可能性をほのめかしていた。
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