本拠地移転
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「ロサンゼルス・ドジャース」の記事における「本拠地移転」の解説
1950年代にブルックリン地区では黒人とプエルトリコ系の住民が増え、白人の富裕層の流出が進み、治安が悪化していった。球場は街中にあるため改装や駐車場の増設が思うようにできず、観客動員も1947年の1,807,526人をピークにその後は100万人前後で推移した。球団はブルックリン地区内に新球場を建設することを希望していたが、ニューヨーク市側はフラッシング・メドウズへの移転を勧め(その土地には最終的にはメッツの本拠地、シェイ・スタジアムが建設された)、球団がブルックリンで新たな土地を取得することを認めなかった。このため球団は1957年5月、ナリーグのオーナー会議で移転の了承を得て、1958年に西海岸のロサンゼルスへ移転した。因みに同じニューヨーク(マンハッタン)に本拠を構えていたジャイアンツが、ドジャースと同時にサンフランシスコへ移転している。 移転当初はドジャー・スタジアムが完成するまでの間、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地とした。スタジアムはその卵形の形状ゆえ野球場に適さず、本塁から左翼席までの距離も250フィート(約76.2m)しか取れなかった。このためレフト方向に高さ40フィート(約12.2m)にもなるスクリーン(ネット)を立てて本塁打の量産を防ごうとしていた。このような悪い環境にもかかわらず、ドジャースは多くの観客を動員した。こんな極端な球場の形に上手く適応した選手の一人が、ドジャースの外野手だったウォーリー・ムーンであろう。彼は1959年シーズンにリーグ最多の三塁打を記録したが、その多くはこのスタジアムでレフト方向にふらふらとあがった打球で、それが左翼の高いスクリーン(ネット)に当たって三塁打になったものだった。ファンの間ではこのムーンの三塁打が、彼の名前に引っ掛けて「ムーン・ショット」と呼ばれていた。ドジャースは移転2年目の1959年にリーグを制覇し、1959年のワールドシリーズを"ゴーゴー・ソックス"と呼ばれたシカゴ・ホワイトソックスとこのスタジアムで戦い優勝した。シリーズの第5戦ではMLB最多記録となる92706人の観客を動員している。またこの年1959年シーズン途中の5月7日に行われたヤンキースとのエキシビジョン・ゲーム(非公式試合)で、前年の交通事故で半身不随となり引退を余儀なくされたロイ・キャンパネラ捕手の引退セレモニーが行われた時には、93,103人もの観客が来場した。 ドジャー・スタジアムは1962年に完成して1978年にはMLB史上初めて年間観客動員300万人を達成している。
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本拠地移転
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「1953年のメジャーリーグベースボール」の記事における「本拠地移転」の解説
1953年は、1903年以来変わらなかった16球団のフランチャイズが大きく地殻変動を起こす最初の年となった。 セントルイス・ブラウンズは、同じ都市にカージナルスがあって観客動員では常に下位に置かれ、1941年にカージナルスが年間60万人を超す観客を集めても、ブラウンズは最高で24万人が精一杯で、8~9万人という年間の数字も珍しくなかった。1941年にロサンゼルスへの移転の試みがアメリカの参戦によって頓挫した後に、前年1952年の暮れにオーナーのビル・ベックがミルウォーキーへの移転を明らかにした。しかしミルウォーキーにAAA級のアメリカンアソシェーションの球団を持つボストン・ブレーブスのオーナーであるルー・ペリーニに拒否されて、一転してボルチモアへの移転を表明して3月のアメリカンリーグのオーナー会議に諮った。しかし3月16日に開かれた会議で、ウィル・ハリッジ会長はシーズン開始直前であることを理由に反対し、その結果5対2で賛成が多かったのだが可決に必要な四分の三票(つまり6球団の賛成が必要)に達しなかったので承認を得ることはできなかった。ところがその2日後にアメリカンリーグの会長やオーナーはナショナルリーグの発表に唖然となった。
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本拠地移転
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移転年度球団名移転元移転先備考1955年 洋松ロビンス→大洋ホエールズ 大阪府 神奈川県 1974年 ロッテオリオンズ 東京都 宮城県 1※ 1978年 ロッテオリオンズ 宮城県 神奈川県 1979年 クラウンライターライオンズ→西武ライオンズ 福岡県 埼玉県 1989年 南海ホークス→福岡ダイエーホークス 大阪府 福岡県 1992年 ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ 神奈川県 千葉県 2004年 日本ハムファイターズ→北海道日本ハムファイターズ 東京都 北海道 2※ 1※1973年から実質的には宮城球場を専用球場として使用していたが、1973年は保護地域が東京都のままだったので公式には「準フランチャイズ」とされた(東京都を本拠地にすることを前提に試合日程が作成されたが、都内で本拠地として使用できる球場が見つからなかった)。同年のシーズン終了後、正式に保護地域を宮城県に移すが、東京近郊に新しい専用球場ができるまでのつなぎという意味合いから球団事務所は従来どおり東京都に置いていた。なお1974年にリーグ優勝した際、日本シリーズの主管3試合は宮城球場ではなく後楽園球場で開催された。これに関する詳細はジプシー・ロッテを参照。 2※2004年の本拠地移転後も東京ドームで主催試合を毎年3、4カード開催しているが、年により試合数が異なる場合がある。詳細は北海道日本ハムファイターズ#本拠地移転後の東京ドームの公式戦を参照。
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本拠地移転
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「テネシー・タイタンズ」の記事における「本拠地移転」の解説
1987年、アダムスオーナーはフロリダ州ジャクソンビルへの移転を計画していることを公表した。この時点でアストロドームは50,000人しかフットボールゲームで収容できず、これはNFLのスタジアムの中で最小であった。市当局は6,700万ドルをかけて10,000人の収容人数増、65のラグジュアリボックスを追加する改修を行ったがこれはその後30年間の増税が必要となった。 1995年、またもアダムスは新スタジアム建設を市当局に働きかけたがアストロドームに代わる新スタジアム建設が控えていたため良い返事を得ることができなかった。そしてテネシー州ナッシュビル市長のフィル・ブレーデセンと秘密交渉をして、1995年シーズン終了後、1998年からナッシュビルに移転することを発表した。翌年のオーナー会議でテネシーへの移転は23-6で承認された。市は1億4400万ドルをかけて新スタジアムを建設することを約束した。後にテネシー州政府も、チーム名をナッシュビルではなくテネシーとすることなどを条件にスタジアム建設の資金を提供している。 1996年、観客が20,000人以下しか入らず、フィールド上の声がメインスタンドでも聞けるほどであった。チームはロードゲームでは6勝2敗だったが、ホームゲームで2勝6敗に終わり8勝8敗であった。市はアダムスに早期移転を了承しこの年がヒューストンでの最後のゲームとなった。 1997年、ナッシュビルには当時収容人数最大のスタジアムは41,000人が入場できるヴァンダービルト・スタジアム(ヴァンタービルト大学のスタジアム)があったがアダムスはこれを嫌い、メンフィスにあるリバティーボウル・メモリアルスタジアムを新スタジアムができるまでの2年間の本拠地と定めた。そのため本拠地をナッシュビルに置いていたチームはシーズン全ての試合をアウェーで行うかのようになってしまった。この決定はメンフィス、ナッシュビル双方の市民にとって不幸なことでメンフィス市民は対抗意識のあるナッシュビルを本拠地とするチームに関心を示さず、ナッシュビル市民は320kmのドライブをして自分たちのチームの応援に行く羽目になった。1950年代以降史上最低の観客動員となってしまった。このため最後の主催ゲームである対ピッツバーグ・スティーラーズ戦のみヴァンタービルト・スタジアムで行われた。この試合には50,677人の観客が入り、多くのファンが入場できなかったが観客の2/3はスティーラーズファンであった。 1998年、前年の反省からアダムスは方針転換。本拠地をヴァンダービルト・スタジアムに変更した。
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