本拠地移転の胎動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:26 UTC 版)
「1952年のメジャーリーグベースボール」の記事における「本拠地移転の胎動」の解説
危機感を持ったのはメジャーリーグの球団を持たずマイナーリーグの球団しかない各都市も同じで、やがてそれらの都市はメジャーの球団を誘致する運動が盛んになり、そしてメジャーリーグの球団も観客数減少に対応するにはフランチャイズの移動を真剣に検討し始めていた。後述のセラ報告書でメジャーリーグはそれまで東部に球団が偏っていたことを指摘して球団を全米に拡大すべしとの指摘を受けて、本拠地の移転に関する規則を緩め、自己のチームが所属するリーグで承認されればフランチャイズの変更が可能となった。そしてこの年の暮れにセントルイス・ブラウンズのオーナーであるビル・ベックが本拠地の移転を断行する用意があるとして、その候補地としてミルウォーキーを挙げた。ブラウンズは11年前の1941年にロサンゼルスへの移転を検討して、ロサンゼルスにフランチャイズを置くパシフィックコーストリーグのロサンゼルス・エンゼルス(現在の同名球団とは無関係)を100万ドルで買い取る計画(買い取らなけらばフランチャイズ権の侵害として1万ドルの損害賠償金を払わなくてはならなかった)を進めていた。これは日本軍の真珠湾攻撃でアメリカが参戦したため立ち消えとなった。 そして戦後7年が過ぎて、同じブラウンズはロサンゼルスでなく今度はミルウォーキーを検討し始めたのだが、しかしミルウォーキーにファームチームを持つボストン・ブレーブスのオーナーであるルー・ペリーニは自分の持つマイナー球団のフランチャイズを譲る意志は無いと答えたため、この話は頓挫した。するとビル・ベックは一転してボルチモアに白羽の矢を立てて、翌1953年3月16日のアメリカンリーグのオーナー会議にボルチモアへの移転の承認を求めた。だがこの時に前年ブラウンズのミルウォーキー移転を断ったルー・ペリーニが誰も予想しなかった動きに出た。 この後にミルウォーキー、ボルチモア、カンザスシティ、ロサンゼルス、サンフランシスコなどの都市が既存の球団の移転を促し、これが1950年代後半に各球団の動きが活発となった。そしてその次に1リーグ8球団制では限定されるためにリーグを拡張して10球団制にしようとする動きが出てきて、それはやがてミネアポリス、ヒューストンが恩恵を受けることになった。さらに新しいメジャーリーグを立ち上げる動きも表面化して、この動きは頓挫したが、既存リーグの拡張の動きは続き、その後に球団拡張(エクスパンション)と呼ばれて20世紀末まで続き、2リーグ16球団がやがてほぼ倍増の30球団となった。
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