打撃面
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NPB通算打率は.325。しかし、歴代ランキングの条件である4000打数に達していないため、ランク外となっている。不足分の71打数を凡打にしても打率.319であり、1位のレロン・リーの打率.320に肉薄する(歴代ランキングにおいては例外規定は適用されない。横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはレロン・リーについで史上2位である)。 巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられていたという。鹿取義隆は「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っている。 横浜時代に同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っている。
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打撃面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:39 UTC 版)
満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並び日本記録である。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。 読売ジャイアンツの第52代4番打者である。1988年 - 1992年にかけて、通算34試合と多くはないものの、133打数50安打14打点、7本塁打で打率.376という成績を残している。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合に4番で出場し、85打数29安打19打点、3本塁打で打率.341の成績を残している。 一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になると本塁打が少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという。現に引退後も長打力そのものは衰えておらず、引退から9年も経った横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという。しかし、安打製造機というほどではなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代と合わせると通算5回)、生涯最高打率は.314であった。一方で、打撃スタイルを確立した1987年以降は不調にあえいだ1993年と規定打席に達しなかった晩年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。1994年にはリーグ最多二塁打を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。 しかし4打席4三振をした翌日に4打数4安打を記録した1996年の開幕1、2戦に象徴的なように、試合単位ではムラのある選手であった。そのため調子の良い日は止められず、猛打賞を142回記録している。またその不安定さが、巨人時代、打力はありながらもクリーンナップに定着できなかった要因となったとも言われる。腕のリーチが長いために少々のボール球でもバットに当ててしてしまうこともあって早打ちの傾向があり、四球が少なく淡泊な打撃も目立ったが、年齢を重ねるごとにクラッチヒッターぶりを発揮。1992年は打率3割、27本塁打を記録しながら64打点に終わるも、1998年は9本塁打ながら81打点を記録している。 また、オールスター前まで最多本塁打・打率ランキング2位だった1992年、6月まで打率首位にランクされていた1991年、1997年、打率ランキング上位に顔を出していた1996年、最多打点争いをしていた1998年など、オープン戦から前半戦は例年好成績を残していた。しかし夏場の暑さに弱く、毎年中盤以降成績を落とし、名球会所属の選手としては数少ない、打撃タイトルとは無縁の選手であった。 いわゆる「悪球打ち」の選手であり、外角低めの球を長い腕のリーチを利かせてバットをちょこんと当て、レフト前に打球を運び打率を稼ぐ一方、ハイ・ボールや内角低めの球をアッパースイングで本塁打にすることも多かった。また打席での狙い球が読めない選手としても有名であり、「悪球打ち」と合わせて相手バッテリーを悩ませた。 背筋を伸ばし、テイクバックを大きくとる打撃フォームが基本形であったが、バットを立てたり寝かせたり、足を上げたりすり足にしたり、スクエアスタンスにしたりオープンスタンスにしたりと、調子に合わせて試合単位で打撃フォームを細かく修正した。またストライクで追い込まれる毎にその長身を少々かがめて打つ姿が特徴的であった。レギュラーを獲得してからはバットを立てた構えを基本としていたが、1995年ごろから長打が出なくなってきていた。しかし、1996年の夏ごろにバットを寝かせる打法に改造することによってバットがスムーズに出るようになり、長打力をとり戻す。30代半ばにして衰えを克服したことが、後の2000本安打達成につながったと言える。 また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録している。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している。 バットは33インチ(83.82センチ)・915グラムと他の選手と比べても短くて太めの、ミート性を重視したものを使っていた。1987年のアリゾナ教育リーグに参加した際に地元のマイナーリーグの選手と交換したバットが元となっている。
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