打撃面とは? わかりやすく解説

打撃面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:41 UTC 版)

ロバート・ローズ」の記事における「打撃面」の解説

NPB通算打率は.325。しかし、歴代ランキング条件である4000打数達していないため、ランクとなっている。不足分71打数凡打にしても打率.319であり、1位のレロン・リー打率.320に肉薄する(歴代ランキングにおいては例外規定適用されない横浜時代記録した1275安打は、外国人選手が一球団放った安打数としてはレロン・リーについで史上2位である)。 巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられていたという。鹿取義隆は「投手から見ると、どこに投げて打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っている。 横浜時代同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間打球飛んでいく。その技術凄かったですね」と語っている。

※この「打撃面」の解説は、「ロバート・ローズ」の解説の一部です。
「打撃面」を含む「ロバート・ローズ」の記事については、「ロバート・ローズ」の概要を参照ください。


打撃面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:39 UTC 版)

駒田徳広」の記事における「打撃面」の解説

満塁時の打席無類勝負強さ見せ、「満塁男」の異名誇った1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し満塁本塁打打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代横浜時代通算本塁打63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続満塁本塁打放っており、これはイチローNPB通算118本)と並び日本記録である。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200読売ジャイアンツの第524番打者である。1988年 - 1992年にかけて、通算34試合多くはないものの、133打数50安打14打点、7本塁打打率.376という成績残している。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合4番出場し85打数29安打19打点3本塁打打率.341の成績残している。 一軍デビュー当時長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度打撃不振に陥り、フォーム改善重ねた結果長打力犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイル確立して成績安定しレギュラー獲得することができた。そして、基本的に単打でも良いからと、とにかくヒット打って次の打者繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2記録したのも3回である。巨人時代より打者中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲少なかった第2次藤田元司政権時代試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田見て監督藤田も、「なぜ試合になると本塁打少ないのだろう」と、記者と共に訝しがっていたという。現に引退後長打力そのもの衰えておらず、引退から9年経った横浜コーチ時代も、試合前のフリーバッティングサク越え連発し若手選手唖然とさせたという。しかし、安打製造機というほどではなく横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代合わせる通算5回)、生涯最高打率は.314であった一方で打撃スタイル確立した1987年以降不調にあえいだ1993年規定打席達しなかった晩年除けば打率.280を下回るともなく年間通じた打率に関して毎年安定した成績残している。1994年にはリーグ最多二塁打記録しているように、駒田比較的高打率を残す中距離であったと言える。 しかし4打席4三振をした翌日に4打数4安打記録した1996年開幕1、2戦に象徴的なように、試合単位ではムラのある選手であった。そのため調子良い日は止められず、猛打賞142記録している。またその不安定さが、巨人時代打力ありながらクリーンナップ定着できなかった要因となったとも言われる。腕のリーチ長いために少々ボール球でもバット当ててしてしまうこともあって早打ち傾向があり、四球少なく淡泊な打撃目立ったが、年齢重ねるごとにクラッチヒッターぶりを発揮1992年打率3割、27本塁打記録しながら64打点に終わるも、1998年は9本塁打ながら81打点記録している。 また、オールスター前まで最多本塁打打率ランキング2位だった1992年6月まで打率首位ランクされていた1991年1997年打率ランキング上位顔を出していた1996年最多打点争いをしていた1998年など、オープン戦から前半戦例年好成績残していた。しかし夏場暑さ弱く毎年中盤以降成績落とし名球会所属選手としては数少ない打撃タイトルとは無縁選手であったいわゆる悪球打ち」の選手であり、外角低めの球を長い腕リーチ利かせてバットちょこんと当てレフト前に打球運び打率を稼ぐ一方ハイ・ボール内角低めの球をアッパースイング本塁打にすることも多かった。また打席での狙い球が読めない選手としても有名であり、「悪球打ち」と合わせて相手バッテリー悩ませた。 背筋伸ばしテイクバック大きくとる打撃フォーム基本形であったが、バット立てた寝かせたり、足を上げたりすり足にしたり、スクエアスタンスにしたりオープンスタンスにしたりと、調子合わせて試合単位打撃フォーム細かく修正した。またストライク追い込まれる毎にその長身少々かがめて打つ姿が特徴的であったレギュラー獲得してからはバット立てた構え基本としていたが、1995年ごろから長打が出なくなってきていた。しかし、1996年の夏ごろにバット寝かせ打法改造することによってバットスムーズに出るようになり、長打力をとり戻す。30代半ばにして衰え克服したことが、後の2000本安達成つながったと言えるまた、左打者としては日本プロ野球歴代1位通算229併殺打(右打者含めた総合では11タイ)とシーズン29併殺打1994年)を記録している。駒田走者一塁打席入った際、広く開いた一・二塁間ゴロ抜け安打打って走者一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後確実性求めバット振り切らず当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じ内野ゴロ量産した。駒田自身は、体の大き選手は、年齢重ね下半身の力が衰えてくると上半身かぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロ増えてしまうと分析している。 バット33インチ(83.82センチ)・915グラムと他の選手比べて短くて太めの、ミート性を重視したものを使っていた。1987年アリゾナ教育リーグ参加した際に地元マイナーリーグ選手交換したバットが元となっている。

※この「打撃面」の解説は、「駒田徳広」の解説の一部です。
「打撃面」を含む「駒田徳広」の記事については、「駒田徳広」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「打撃面」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「打撃面」の関連用語

打撃面のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



打撃面のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのロバート・ローズ (改訂履歴)、駒田徳広 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS