1994年以後
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「南アフリカの国旗 (1928年-1994年)」の記事における「1994年以後」の解説
旧国旗「オレンジ・白・青」は廃止以後も南アフリカ国内で議論の対象になっている。アフリカーナーの間では自分たちの歴史と遺産のシンボルであると考える人もいる一方、アパルトヘイトと白人至上主義の象徴だと考え、その使用に強く反対する人も多い。2019年までは旧国旗の掲揚は違法ではなく、その掲揚は南アフリカ共和国憲法により言論と表現の自由として保護されていた。 21世紀に入り、旧国旗は南アフリカ国外からは次第に白人至上主義の旗として見られるようになっていった。特に、2015年にアメリカ合衆国サウスカロライナ州チャールストンで、黒人教会で白人至上主義者が乱射する事件が発生すると、容疑者の青年がアパルトヘイト時代の南アフリカ国旗と白人至上主義時代のローデシアの旗(1968年-1979年)をあしらったジャケットを着て映っている写真をネットにアップロードしていたことから、旧国旗はますますレイシストの旗という見方をされるようになった。このため、歴史的文脈から旧国旗が使われるような場合でも、その使用をやめるよう訴えるような動きも起きている。オーストラリアのニューサウスウェールズ州のクーマ(Cooma)では、第二次世界大戦後に多数のダムを灌漑などのために建設した「スノーウィー山脈計画」(Snowy Mountains Scheme)に参加した各国の労働者を記念するため、旧カナダ国旗(レッド・エンサイン)、49個の星が描かれていた時代のアメリカ合衆国国旗、その他1959年当時の各国国旗が掲揚されているが、アパルトヘイトの旗である旧南アフリカ国旗を降ろせという抗議が2016年に寄せられた。ケープタウンの要塞跡地であるキャッスル・オブ・グッドホープでは、オランダから現代の南アフリカに至るまでこの地を治めた国の旗を掲揚しているが、その中には1928年から94年までの旧国旗も含まれる。1994年の段階では、歴史上の旗の掲揚ということで旧国旗を掲揚し続けることへの合意があった。しかし2012年、ANCから出ている国会議員がこの旗に不満を表明したことをきっかけに、現在の国旗以前の古い旗は全部撤去され、屋内の博物館に移動された。 また旧国旗は1994年以後も、白人による黒人に対する抗議のために使われている。2005年、南アフリカ北部のルイス・トリハート市で、ヴェンダ人の部族国家の19世紀後半の王であったマカド(Makhado)の像に、オレンジ・白・青のペンキがかけられて汚損されるという事件があった。これはグレート・トレックのリーダーの一人、ルイス・トリハートにちなむ地名を「マカド」に改名しようという提案への抗議であった。南アフリカ人の中には、ANC政権の「失政」に対してオレンジ・白・青の旗を振り始める者もいる。 2019年、平等促進・不当差別防止法(Promotion of Equality and Prevention of Unfair Discrimination Act:PEPUDA)に基づいて開廷された平等裁判所で、旧国旗の公的な場での掲示はヘイトスピーチとして認められるという判決が下された。ジャーナリスティックな目的、学術上の目的、芸術上の目的での掲示は例外とされている。裁判官は、「(アパルトヘイトの旗の)掲示は、生まれたばかりの我々の人種差別のない民主主義に打撃をあたえる。…アパルトヘイト後の南アフリカで、礼儀正しい互いの関わり合いの象徴となった、『ウブントゥ』 (ズールー語: Ubuntu) / 『ボソ』 (ソト語: botho) (いずれも「他者への思いやり」を意味するアフリカ南部の伝統思想)に対する侮蔑ともなる」と述べている。
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1994年以後
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「社会党 (オランダ)」の記事における「1994年以後」の解説
1994年、党としては初めて第二院に2名の議員が当選した。翌年には第一院にも議席を得た。1999年には欧州議会選挙でも1議席を得た。なお、1990年代には、これまで社会民主主義を掲げてきた労働党(PvdA)が路線変更したことにより、社会党やフルンリンクスが支持者の受け皿となったとされる。 2002年、2003年の各第二院選挙では9議席を得て議席がほぼ倍増。2003年の第二院選挙については、事前の世論調査にて24議席を獲得するとの予測も出たれたことから、選挙での大勝を見越した社会党支持者が労働党へ戦略投票したものと見られる。2004年の欧州議会選挙では2名が当選。2005年の欧州憲法条約批准の是非を問う国民投票に際しては批准に反対する数少ない政党となった。 2006年の地方選挙では議席を倍以上伸ばすなど大健闘。自治体へ多くの候補を擁立したほか、国政では第2次バルケネンデ政権下で福祉予算の削減が行われたことに対して、国民が反発したことなどが議席増大に繋がった。また少数派による第3次バルケネンデ政権下で行われた同年の第二院選挙では、3倍近く議席を伸ばし25議席を得て議会第3党へ躍進した。 議会でも議席を伸ばしたにも関わらず、2006年から翌年にかけての内閣改造では与党入りがならなかった。2007年の地方選挙では、前回(2003年実施)を上回る54自治体で議席を得て、全体では83自治体で議席を獲得した。同選挙の結果、第一院では4議席から11議席へ倍増となった。 2012年の第二院選挙では、当初は最大与党である自由民主国民党(VVD)に拮抗する得票数が予想されたが、結果としては議席を伸ばすことはできなかった。2017年の第二院選挙では1議席減の14議席を獲得した。2019年の地方議会選挙では各地で議席を減らし、全体では半減した。同年の欧州議会選挙でも議席を失った。2021年の第二院選挙では9議席を獲得した。
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