1994年以降の再発見と観光
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「アル=マグタス」の記事における「1994年以降の再発見と観光」の解説
第三次中東戦争(六日戦争、1967年)の結果、ヨルダン川は停戦ラインとして両岸ともが軍事的に重要になり、巡礼者たちが立ち寄れなくなった。1982年以降、カスル・エル・ヤフドは立ち入り禁止のままだったが、イスラエルはそれより北方のヤルデニト(Yardenit)遺跡でのキリスト教徒の洗礼は許諾した。1994年のヨルダンとイスラエル間の和平(Israel–Jordan peace treaty)に続き、宗教史に強い関心を抱いていたヨルダン王子ガーズィーがフランシスコ会士の考古学者に、何が洗礼遺跡となっているか実見すべきと説得されて一緒に訪れた後に、遺跡への接近が再開された。そして、ガーズィーらが古代ローマ時代の活動後を発見したことは、その後の進展を促すのに十分だった。まもなくモハンマド・ワヘーブ(Dr. Mohammad Waheeb)に率いられた数度の発掘調査が行われ、1997年の調査では古代遺跡を再発見した。1990年代は発掘調査が行われていた時期であり、21世紀初頭からは元の状態の保存や復元の処置が講じられるようになった。2002年には、ヨルダン当局は遺跡を全面公開した。イスラエルが支配する西岸のカスル・エル・ヤフドも、(1985年以降、軍の監視下でなら、ローマ・カトリック、正教会それぞれの日取りに公現祭/神現祭を祝うことだけは認められていたが)2011年には観光客向けに公開された。2007年にはこの遺跡を題材として、『イエス・キリストの洗礼 - 「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」の発掘』(The Baptism of Jesus Christ – Uncovering Bethany Beyond the Jordan)と題するドキュメンタリー作品が制作された。 ただ、多くの観光客をひきつけてきたのはヨルダン側よりもイスラエルが支配する西側の方で、その差は50万人と数万人とも、30万人と10万人とも言われている。BBCはイスラエル側のヤルデニトには、年間40万人以上が訪れているとした。イスラエルとヨルダンは洗礼者ヨハネの活動場所について争ってきたが、その背景として『フィナンシャル・タイムズ ドイツ版』は観光客獲得競争を指摘している。 ミレニアムが祝われた2000年には、ヨハネ・パウロ2世がローマ教皇として初めてアル=マグタスを訪れた。それに続き、教皇庁の関係者や国賓級の訪問者らが訪れた。2002年には遺跡の発見後初めて、キリスト教徒たちによってイエスの洗礼を祝った。それ以降毎年、数千人のキリスト教巡礼者が訪れ、「ヨルダン側の向こう側、ベタニア」でのイエスの公現を祝っている。また、2002年以降は遺跡が観光客にも公開されているため、巡礼者だけでなく観光客も引きもきらずに訪れている。2015年には国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストにも登録された。ただし、対象となるのは東岸の遺跡地区だけであって、イスラエル側のカスル・エル・ヤフドは含まれない。 ヨルダン側の洗礼遺跡は国王アブドゥッラー2世に任命された者たちで構成される独立した委員会、洗礼遺跡委員会(the Baptism Site Commission)によって管理されている。
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