アパルトヘイト時代
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「南アフリカ共和国年表」の記事における「アパルトヘイト時代」の解説
1961年3月12日 - 国際自由労働組合総連盟(ICFTU)が、南アフリカへの経済制裁を勧告するよう国連総会にて要求する。 3月15日 - イギリス連邦からの脱退を表明する。 5月30日 - チャールズ・ロバーツ・スワートが南アフリカ総督を辞任する。 5月31日 - 国名を南アフリカ共和国に改名、共和制国家となる。スワートが大統領に就任する。 アフリカーナー勢力が強まる。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定めるアパルトヘイトを押し進める。日本人は、白人ではないにもかかわらず白人として扱うという名誉白人とされる。日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになる。 1962年 - 国連は、各国に任意に武器の対南アフリカ禁輸を求め、外交関係の破棄、共和国製品のボイコット、輸出の全面禁止、南アフリカ船舶・航空機のアクセス拒否を加盟国に求める決議を採択。南アフリカ政府の人種差別政策を監視するために、18カ国代表より構成される「南ア共和国政府のアパルトヘイト政策に関する特別委員会」を設置。ネルソン・マンデラ、密出国と扇動の罪で5年の懲役判決。ロベン島に収監される。 1963年 - 被告がネルソン・マンデラのリボニア裁判が始まる。国連総会、106カ国の満場一致で南アフリカ共和国の政治犯の即時釈放を求める決議。 1967年5月31日 - テオフィラス・エベンハェゼル・デンゲスが大統領に選出されるが、直後に心臓発作により意識不明に陥る。 6月1日 - デンゲスの大統領就任を断念し、ジョシュア・フランソワ・ノーデが大統領に選出される。 1974年 - 国連総会で、南アフリカ代表団の信任状の受理を拒否。アパルトヘイト政策を継続する限り、南アフリカの国際機関、国際会議への参加を許すべきではないと勧告。一方で、総会本会議でのアパルトヘイト問題の審議に、ANCとPAN[要曖昧さ回避]をオブザーバー出席させる。 1976年6月16日 - ソウェト蜂起。オランダ語系の言葉でおもにアフリカーナーが使っている、アフリカーンス語での教育の強制に抗議する高校生たちを警察が銃撃し、128名の死者が出る。 1984年 - カラード、インド人にも参政権を認めた人種別三院制議会を導入。反体制運動は激しくなっていく。国際的に経済制裁を受ける。南アフリカ各地で反アパルトヘイト運動が高まる。日本でも、少ないながらも各地に反アパルトヘイトの市民グループが生まれた。 1985年7月21日 - 東ケープ、ヨハネスブルグ、ヨハネスブルグ東部の工業地帯に非常事態宣言 10月25日にはケープタウンその周辺に拡大される。 1989年8月15日 - ボータが大統領を辞任、フレデリック・ウィレム・デクラークが大統領代行に就任する。 9月20日 - デクラークが第9代大統領に就任する。 1990年2月11日 - 反アパルトヘイトの国際世論や、南アフリカ国内の激しい反アパルトヘイト闘争などに押されて、白人大統領デクラークは、27年間も牢獄に入れられていたANCの黒人指導者ネルソン・マンデラを釈放した。 1990年7月 - インカタ自由党(IFP)旗揚げ。 1991年 - アパルトヘイト関連法の廃止。人種差別の法律の全廃を決定。 1993年4月10日 - クリス・ハニ(南ア共産党事務局長)暗殺。
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