アパルトヘイト施政下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:25 UTC 版)
「カラード (南アフリカ共和国)」の記事における「アパルトヘイト施政下」の解説
1950年に公布された人口登録法によって、「カラード」という分類が成文化され、更にその後の改訂によって、より細かく分けられる事となった。 例えば、コイコイ人やケープマレーは、共にアフリカーンス語を第一言語とし、双方の間で通婚がある程度進んでいた事のほか、合わせても黒人に人口規模が及ばなかった事などから、混血ではない者も含めて、一括りに「カラード」として分類される事となった。 他にも、印僑は当初カラードの下位グループとして分類されていたもの、後の法改正によって「アジア人」と呼称される、他のカラードとは別個の独立した人種と定められる事となった。それに伴い、元々バルタザール・フォルスターをはじめとするアフリカーナー保守派を中心に、第二次世界大戦後も多く信奉者がいたナチ党が、「インド人はアーリア人である」と唱えていた事や、推計人口においても白人やカラードと比して少数派だった事も相まって、印僑はカラードより優遇される中間支配層として利用される様になった。 この様に、同じ先住民・アジア系住民の間でも、人種によって異なるグループに区分し、上下の序列がもたらされる方針を取ったのは、非白人間で差別や格差が生じる様に仕向ける事により、団結してアパルトヘイトへ立ち向かう事を防ぎたい、という政府側の意向によるものだった。 こうした背景もあって、グリクア人はアパルトヘイト施政下においては「黒人」ではない「カラード」である事を自認する様になったが、黒人の行動を制限するための身分証明書である“ドンパス”が、一般的なカラードには携帯が義務化されていなかった一方で、先住民の一部と見なされていたグリクア人には携帯が義務付けられるなど、カラードの中では一段低い扱いを受けていた。 1956年にヨハネス・ストレイダム首相は、カラードに与えられていた白人と同等の選挙権を剥奪すると同時に、カラードには白人とは異なる有権者名簿を作成し、彼等の利益代表たる白人議員を、国会の下院では4名、ケープ州議会においては2名まで選出する権利を与え、国会の上院では総督によって1名が任命される事も定めた、投票者分離代表法を可決させた。これには、アフリカーナー保守派と黒人から反発の声が上がる事となったが、ブラック・サッシュ(英語版)の活動家達は、カラードの声に耳を傾ける事に賛同した。 政府は1958年にカラード問題省を設立し、翌1959年にはカラード達自身によって、“カラード問題解決のための連帯”が立ち上げられた。後者には27名の会員がおり、政府とカラードの橋渡し役として機能した。 だが、こうしたカラードの代弁者を自称する白人のリベラル派やカラードの少数エリート層による活動に対し、一般的なカラード達は冷ややかな視線を向けており、多くの者が新たな有権者名簿への登録を拒否し、カラードの登録有権者数は劇的に減少した。その後も、1963年にはカラード教育法が成立し、白人とカラードの学生は分離して教育を受けさせられるようになるなど、カラードに対する差別的待遇が改善される事は無かった。 1968年に投票者分離代表法は廃案となったが、翌1969年にはカラード代表評議会が設立された。この評議会の任期は5年で、政府が指名する20名と、小選挙区制の下でカラード有権者によって選ばれた40名による計60名の議員で構成された。 白人有権者の66.3%が賛成に票を投じる事となった1983年の国民投票の結果に伴い、新憲法(英語版)が制定される事となった。これにより、カラードとインド系住民に対して、限定的ではあるものの参政権を付与する事が認められ、人種別三院制議会が成立する事となった。同時に多数派である黒人は、ホームランドを「独立」させる事によって、同国憲法の適用外に置かれる事となった。これらの方策は、南アフリカにおける全国民に選挙権を認めるべきだとする国際社会からの圧力もあり、1990年から段階的に廃止されるようになった。
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