アパルトヘイト政策の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:02 UTC 版)
「南アフリカ航空」の記事における「アパルトヘイト政策の影響」の解説
しかし、南アフリカ政府が悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)政策をとっていたことから、1950年代から1960年代にかけて相次いで独立を果たした他のアフリカ諸国は、南アフリカ航空の領空通過を相次いで拒否。そのために、アフリカ諸国の領空を通るのが最短ルートであるヨーロッパ線はアフリカ諸国の領空を通過不可能であったことから、やむなく大西洋上に出てアフリカ大陸を迂回する遠回りのルートで運航されていた。 また、同じ理由から国際線はアフリカ大陸内の近隣諸国への路線がほぼ皆無で、英国やオーストラリア、シンガポールなどの英連邦諸国の他は、イスラエルや台湾やブラジル、アルゼンチンなどの、政治上の理由で南アフリカとの友好関係を維持し、南アフリカ航空機の乗り入れを認めていた国への長距離路線が中心だった。 さらに1964年には、南アフリカ政府は国際民間航空機関(ICAO)から脱退し、その国際的孤立がさらに進んでいった。 このような長距離路線はその後導入されたボーイング707によって運航され、一部はカーボベルデ共和国やモーリシャスなどの、南アフリカと友好関係を持っていた数少ないアフリカ周辺諸国の空港を経由またはテクニカルランディングして運航されていた。 1970年代の後半に入ると、長距離路線用に製造されたボーイング747-SPで運航されるようになった。この便は、ヨーロッパ各国とヨハネスブルグを大西洋ルートで結ぶ便に使用された。また、1980年代前半には、ボーイング747-SPと同程度の航続距離を持つボーイング747-200/300コンビが導入され、アメリカ線や台湾線に導入された。しかし、1986年には国連による南アフリカ制裁の強化によりアメリカやオーストラリアへの運航ができなくなり、同年11月にニューヨーク線の運航が停止された。また、アパルトヘイト政策に反発する勢力により、国内外の南アフリカ航空の支店が度々放火された。
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