アパルトヘイト前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)
「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「アパルトヘイト前」の解説
1910年5月31日に成立した南アフリカ連邦において、最も重要な政策は白人間の人種問題であった。富裕でリベラルなイギリス系と貧しく保守的なアフリカーナーはあちこちでいざこざをおこしたが、やがて黒人を犠牲にすることによって両人種はともに経済成長を達成し、1948年までには両人種間の経済格差はほとんどなくなっていた。政権は常にアフリカーナーが握っていた。有権者の60%を占め、イギリス系より団結する傾向のあるアフリカーナーは、常に選挙で有利な状況を保ち続けた。1910年に南アフリカの政権の座に就いたのはルイス・ボータとヤン・スマッツであり、彼ら率いる南アフリカ党は鉱山主やイギリス系に配慮しながら政権運営を行った。これに不満を覚えたジェームズ・バリー・ヘルツォークは、1914年に内閣を飛び出し国民党を結党した。一方で、南アフリカ党政権は白人の地位向上を目指して黒人差別を法制化し、1913年の原住民土地法によって黒人を居留地へと押し込めようとした。 1922年の鉱山の白人労働者のストライキにスマッツは武力鎮圧を用いたため、有権者の支持を失い、1924年の選挙では国民党が政権を握った。 ヘルツォークの国民党政権は、アフリカーナーの地位向上のためにさまざまな政策を実施した。農産物市場の保護や白人労働者保護、白人女性への参政権の付与により白人全体としての政治力経済力を増強し、1925年には公用語をオランダ語からアフリカーンス語へと変更した。1927年には背徳法が制定され、異人種間の恋愛関係が禁止された。 1931年、ウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカはカナダやオーストラリアと同様に自治国からイギリス連邦内における独立国となり、内政外交に完全な主権を持つこととなった。 1933年には大恐慌の余波を受け、国民党のヘルツォークと南アフリカ党のスマッツが連立政権を樹立し、1934年には両党は合併して連合党となった。これに不満だったダニエル・フランソワ・マランは1933年に純正国民党を設立し、これが後の国民党となる。第二次世界大戦が勃発すると南アフリカは連合国側に参戦するが、これに不満な一部アフリカーナーは親ナチス団体オッセワ・ブラントワクを設立し、反戦運動を繰り広げた。第二次世界大戦は戦場から遠く離れた南アフリカの経済を飛躍的に向上させ、工業化が進み白人の貧困もほぼ消えた。しかし、アフリカ民族会議に率いられた黒人も白人との格差に不満を募らせており、連合党政府はパス法の緩和などいくつかの譲歩を行った。しかし、この譲歩は黒人にも不満であったが、アフリカーナーの間に深刻な不安を巻き起こし、人種差別政策を唱える国民党の支持は激増した。
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