アパルトヘイト以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:25 UTC 版)
「カラード (南アフリカ共和国)」の記事における「アパルトヘイト以前」の解説
カラードは、アパルトヘイトやその元となる政策との闘いにおいて、重要な役割を果たした。 中でもグリクア人(英語版)は、トレックボーア(英語版)の男性とコイサン族の女性の間に生まれた子孫であったが、南アフリカの社会秩序において、混血人種ゆえの微妙な立ち位置に置かれていた。グリクア人の指導者であるアダム・コック1世は、18世紀にケープタウンの外で自力で解放を勝ち取り、土地を提供されたケープ植民地総督の元奴隷であったが、オランダ東インド会社が管轄しない領地を所有していた事から、脱走兵や逃亡奴隷など、様々なコイコイ人を匿い続けた。 1902年に設立されたアフリカ政治機構(英語版)は、主にカラードによって構成され、医師にしてその指導者でもあったアブドゥラー・アブドゥラーマン(英語版)は、長年に亘ってカラードの政治的努力を促進し続けた。その後、多くのカラードがアフリカ民族会議や統一民主戦線(英語版)に参加するなど、果敢に反アパルトヘイト闘争に臨む事となった。 カラードの政治的権利は、居住地や時間の経過によって異なった。19世紀にアフリカーナーによって建国されたトランスヴァール共和国やオレンジ自由国では、カラードに政治面での権利は殆ど認められなかった。一方ケープ植民地においては、法律上では白人と同様の権利を認められていたものの、実際には白人とは異なり所得や財産に応じて条件が制限されており、この事はカラードの間に深刻な格差をもたらす事となった。カラードの中には、アブドゥラーマンを含めてケープタウンの市議会議員に就任した者もいたが、1910年に南アフリカ連邦が成立した事に伴い、白人以外は引き続き選挙権は認められたものの、被選挙権は剥奪される事となった。これに反発したカラードは、頻繁に投票のボイコットを行ったが、こうした抵抗運動は、1948年の総選挙で国民党の勝利を後押しする事態を招き、結果としてアパルトヘイトが制定され、後にカラードは選挙権まで剥奪される事となった。 政府はカラードを強制移住の対象に定め、特にケープタウンの第6地区においては、ブルドーザーを用いて立ち退きを迫り、当時はまだ十分なインフラ整備や雇用機会が備わっていなかったケープ・フラッツ(英語版)を新たな居住地として定め、転居させた。この事は、カラードの若者の間にギャング活動が蔓延る温床を形成する原因となり、アパルトヘイト撤廃後も、複数のギャンググループによる抗争が繰り返され続け、現在でも西ケープ州における慢性的な治安の悪さの大きな原因となっている。
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