アパルトヘイトの時代
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「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「アパルトヘイトの時代」の解説
1948年、国民党は政権を獲得し、マランが首相に就任した。国民党は政権獲得後、1950年より人種差別政策を実行に移し始めた。この政策を、国民党は人種ごとに分離して発展するものであるとして「分離」(アフリカーンス語でアパルトヘイト)と称した。それまでの差別法に加え、異人種間の婚姻を禁ずる雑婚禁止法(1949年)、人種別居住を法制化した集団地域法(1950年)や黒人の身分証携帯を義務付けたパス法(1952年)、交通機関や公共施設を人種別に分離した隔離施設留保法(1953年)、人種別教育を行うバンツー教育法(1953年)などが次々と法制化され、白人、カラード、インド人、黒人の4人種を社会のすべての面で分断する政策が実施された。さらに1951年、国民党はカラードから選挙権を取り上げる法案を可決。司法がこれに対し激しく抵抗したものの、1956年には両院3分の2以上の可決をもって最終的にカラードの選挙権は取り上げられた。これに対し、黒人を代表するアフリカ民族会議などは反対の声を上げたが、選挙権を持つ大多数の白人はこれを歓迎し、国民党は以後1989年まで選挙で勝利し続けた。 国民党政府のもと、政府の権限は急速に大きくなり、司法のコントロールも受け付けなくなった。白人内での民主主義は維持され、アパルトヘイト反対を含む言論の自由も認められていたものの、政府は裁判なしで人々を逮捕する権限や、集会を禁止する権限、出版物を発行禁止にする権限や出版物を検閲する権限を持ち、南アフリカは警察国家的様相を呈した。白人と黒人など他人種とは明確に線引きがなされ、熟練労働を白人が、単純労働を他人種が受け持ち、富を白人が独占する構図が完成した。 マランは1954年に引退し、後継首相となったヨハネス・ストレイダムが1958年に死去すると、ヘンドリック・フルウールトが首相の座に就いた。1959年にはバントゥー自治法が制定され、国土を白人地域(87%)と黒人地域(13%)とに分け、黒人は民族ごとのバントゥースタンに属することとした。人口の大多数を占める黒人には非常に小さくやせた僻地しか与えられず、白人が国土の重要な部分を独占した。さらにパス法など各種差別法案を強化し、アパルトヘイトをさらに堅牢なものとした。これにより、フルウールトは「アパルトヘイトの建設者」とも呼ばれる。これには国際的な批判が集中し、1960年からは南アフリカはオリンピックからも参加を拒絶されるようになる。イギリス連邦からも批判がくるようになると、フルウールトは1960年に元首を英国女王とする立憲君主制から大統領を元首とする共和制への政体変更を求めた国民投票を実施。ナタール州は反対したものの、他の3州の賛成により南アフリカは共和制に移行し南アフリカ共和国が成立。翌年にはイギリス連邦を脱退した。しかし、南アフリカは国是を反共としており、西側諸国にとっては経済的にも戦略的にも重要な友好国であったため、経済制裁などはなされなかった。 このようなフルウールト政権に対し、未だ合法政党として活動を続けていたアフリカ民族会議とパンアフリカニスト会議は抗議集会を計画。1960年3月21日に行われた集会に軍隊が発砲し、シャープビル虐殺事件が発生した。これにより両党は非合法化され、黒人活動家の多くは地下にもぐり、両党は武装闘争路線を選択してテロを行ったものの、1962年にはネルソン・マンデラが逮捕され、1963年にはヨハネスブルグ郊外のリヴォニアでウォルター・シスルら残余の活動家を逮捕。彼らはロベン島の刑務所へと送られ、抵抗運動は一時霧消した。
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