アパルトヘイトの動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)
「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「アパルトヘイトの動揺」の解説
「en:South African Border War」および「ソウェト蜂起」も参照 フルウールトは1966年9月6日に暗殺され、政権はバルタザール・フォルスターが継いだ。フォルスターは国際的批判をかわそうとバントゥースタンのうちトランスカイなど4つを「独立」させたものの、実権は南アフリカが握っており、この独立を認めた国は南アフリカ以外には存在しなかった。また、北に続々と誕生しつつあった南部アフリカの黒人諸国に対し不安定化工作を実施し、アフリカで植民地化政策を続けたポルトガルと同調した。1975年にポルトガルでの政変によって独立したアンゴラやモザンビークに対しては反政府活動を支援し、アンゴラ内戦には南アフリカ防衛軍(英語版)が直接介入、同じくアパルトヘイトを継続するローデシアの白人政権には支援を与えた。これに対し、一時沈静化していた黒人解放運動がスティーブ・ビコらの指導によって再び活発化。1976年、アフリカーンス語の教育言語化に反対してソウェト蜂起が起きたがフォルスターはこれを武力で鎮圧。1978年には首相にピーター・ウィレム・ボータを任命して自身は大統領に就任したが、金銭スキャンダルにより辞任を余儀なくされた。 ボータは非白人に対しいくらかの譲歩を行い、黒人労働組合の結成を認め、1984年には首相職を廃して儀礼的なものだった大統領職に実権を集中し、白人・カラード・インド人による人種別三院制議会を開設したものの、国民の大多数を占める黒人には相変わらず選挙権は与えられず、カラードやインド人にも白人への勝利の道が閉ざされたこの改正は全人種に不評であった。一方、この譲歩にも不満なアフリカーナー保守派はアンドリース・トリューニヒトを中心に保守党を結成し、より厳しいアパルトヘイトの実行を求めた。1985年には雑婚禁止法、背徳法、隔離施設留保法が廃止され、1986年にはパス法が廃止されたものの、黒人の不満はまったく解消されず、全土で政治暴力が続き、また世界中でアパルトヘイト反対運動の波が高まった。 一方、対外戦争も手詰まりに陥っていた。南アフリカは1975年から共産主義を掲げるアンゴラのMPLA政権に対し軍事介入を行っていたが(ブッシュ戦争)、この措置はナイジェリアのような親西側的なブラックアフリカ諸国の反発をも招き、占領していたナミビアの民族解放組織である南西アフリカ人民機構(SWAPO)がアンゴラ政府側に付くなど南アフリカにとっての大きな外交的失点となり、さらに1988年にキューバ=アンゴラ連合軍にアンゴラ領内のクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)で侵攻を阻止され、南アフリカの軍事的勝利の可能性は潰えたのである。この戦いの後、手詰まりに陥った南アフリカ、キューバ、アンゴラはキューバ軍と南アフリカ軍のアンゴラ撤退と、南アフリカのナミビア撤退を定めたニューヨーク合意(英語版)を調印し、南アフリカはアンゴラとナミビアから撤退した。ナミビアは1990年に南アフリカから独立し、アパルトヘイト体制は国外で敗北したのであった。
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