アパルトヘイトの解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)
「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「アパルトヘイトの解体」の解説
1990年2月、デクラークはANCのような政党を解禁した。ツツは彼の動きを祝福すべく電話した。そのすぐ後に、デクラークはマンデラが監獄から解放されることを発表した。ANCはツツにマンデラと妻のウィニー(Winnie)がビショップスコートで自由となった最初の夜を過ごすことが可能かを問い、ツツは同意した。彼らはケープタウン・シティーホールで35年ぶりに会った。マンデラはそのバルコニーから集まった人々にスピーチをした。ツツは1990年2月の聖公会主教会議へのマンデラの出席を促し、マンデラはツツが「民衆の大主教だ」と評した。この会議で、ツツと主教たちは、普通選挙制への移行が「不可逆的」であるならば諸外国に制裁の終了を呼びかけること、反アパルトヘイト・グループの武装闘争の終了を促すこと、聖公会の聖職者が政党に所属することを禁止することを決定した。多くの聖職者たちは最後の決定、つまり政党への所属禁止に抗議した。特にそれが相談なく課されたことを問題視した。ツツは公然とこの決定を擁護し、もし聖職者が公然と政党に加入していれば、特に南アフリカ全土で対立する政党の支持者たちの暴力が増大する中では、不和の種となるだろうと述べた。 3月、クワズールー(英語版)でANCの支持者とインカタ自由党の支持者の間で衝突が勃発した。ツツはウルンディでSACC代表団の一員としてマンデラ、デクラーク、インカタ党首マンゴスツ・ブテレジと会談するため、アメリカ訪問を取りやめた。教会指導者たちはマンデラとブテレジに互いの政党間での暴力的衝突を抑えるための合同大会を開くよう促した。ツツとブテレジの関係は常に緊張したものであったが(特にアパルトヘイト政府とブテレジの協力によるバントゥースタン制度にツツが反対していたことで)、ツツはブテレジを民主的なプロセスに関与させるために幾度にもわたり彼を訪ねた。ANCとインカタの武力衝突はクワズールーからトランスヴァールまで拡大し、ツツは影響を受けたウィットウォータースランドのタウンシップの数々を巡り、家を失った人々を訪ね、平和を祈った。ツツはセボケン(英語版)での虐殺の犠牲者を訪ね、その後にはボイパトン虐殺(英語版)の犠牲者も訪問した。 多くの別の活動家たちのように、ツツはANCとインカタの間の緊張を煽り立てる「第3の力(英語版)」があると考えていた。後に、情報機関がANCの交渉上の立場を弱めるため、インカタに武器を補給していたことが明らかになった。ANC指導層の幾人かと異なり、ツツはこれらに対するデクラークの個人的な加担を非難したことはなかった。1990年10月、ツツはビショップスコートで教会指導者たちとANC、PAC、AZAPOなどの政党指導者たちが参加する「サミット」を開催し、彼らに対し、自らの支持者に暴力の回避と自由な政治活動を許容するよう呼びかけるように促した。南アフリカ共産党(英語版)の指導者クリス・ハニ(英語版)は白人によって暗殺され、ツツはソウェトの外で行われたハニの葬儀で説教師(preacher)を務めた。ツツはハニのマルクス主義的信念に反対していたが、それでも活動家としてのハニを賞賛した。これらの出来事の中、ツツは肉体的な疲労と病気が重なり、アメリカのジョージア州アトランタのエモリー大学のキャンドラー神学校(Candler School of Theology)で、4か月間の長期休暇を取った。 ツツは南アフリカが人種的内戦ではなく交渉による移行を通じて、普通選挙制に向けて変化しているという見通しによって気分を高揚させていた。彼は南アフリカ人の投票を促すポスターに彼の顔を使用することを許可した。1994年の全人種選挙(英語版)が実施された際、ツツは感極まって、記者に「我々はとても幸福だ(we are on cloud nine)」と語っている。彼はケープタウンのググレツ(英語版)タウンシップで投票した。この選挙はANCが勝利し、マンデラが大統領であり、国家統合政府の形成を監督すると宣言された。ツツはマンデラの大統領就任式に出席し、その宗教的部分に責任を持った。ツツはその式典を、キリスト教徒、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、そしてヒンドゥー教徒の指導者たちが祈りと講読に参加する多宗教の式典にするべきだと主張した。
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